「ジャカルタ首都警察(終)」(2020年04月03日)

インドネシア共和国国家警察長官は1949年12月6日、ジャカルタの警察機構を大ジ
ャカルタ警察庁Kepolisian Komisariat Jayaと改め、アティン・ナタディクスマ一級警察
監を長官に任命した。現在のジャカルタ首都警察Polda Metro Jayaはその日を創設記念日
にしている。大ジャカルタ警察庁は植民地時代のバタヴィア警察本部を本拠地にした。

1963年、大ジャカルタ警察庁はスディルマン通りとガトッスブロト通りの南東角地に
移転した。現在のジャカルタ首都警察本部がある場所だ。スカルノ大統領は17Haの用
地を許可したが、実際には7Haしか手当てがなされなかった。40億ルピアの予算で建
物建設工事が行われ、1970年に完成した。

できたばかりのその場所をわたしは1972年に訪れている。インドネシアの運転免許証
を手に入れるためにそこへ行った。運転免許証実技試験は草が生えているだだっ広い空き
地で行われていた。そこは多分、現在駐車場になっている場所だったように思われる。わ
たし自身は日本から国際免許証を持って来たから、実技試験を受ける必要がなく、ただ簡
単な道路標識のテストを受けさせられた。

テストと言っても、窓口の並ぶホールの片隅に掲示されているさまざまな道路標識のポス
ターを前にして、警官が標識を指さし、野次馬に取り囲まれたわたしが口頭で答えるとい
う、まるで洒落のようなテストだった。日本で目にしたこともない標識があったのには驚
かされたが。


1965年、ジャカルタ市警察は軍隊化した。G30S事件の結果だ。軍隊化は全国の警
察に対して行われ、州警察は警察地区司令部Komando Daerah Kepolisian (Komdak)と名称
が変更されて、全国に26地区司令部が編成された。ジャカルタ警察は第7地区司令部
Komdak VII Jayaだったが、1967年に第7が外されて、首都警察地区司令部Komando 
Daerah Kepolisian Metro Jaya (Komdak Metro Jaya)となった。

1979年になってやっと軍隊臭をふんぷんとさせていたコマンドの名称が外されて
Daerah Kepolisian Metro Jayaに変更された。1980年、またまた名称が変更されて、
大ジャカルタメトロポリタン地区警察Kepolisian Daerah Metropolitan Jakarta Raya 
(Polda Metro Jaya)に納まり、現在に至っている。


2018年1月19日、13年の歳月をかけて建設されていた23階建ての本部メインビ
ルが完成して盛大なオープニング式典が挙行された。このメインビルは以前デンスス
Detasemen Khusus88ビルと名付けられる案が出されていたが、結局プロモテルビルGe-
dung Promoterと命名された。プロモテルというのは首都警察のモットーであるプロフェ
ッショナルPROfesional、モダンMOdern、信頼されるTERpercayaの各第一音節を集めて作
られた言葉だ。このメインビルで正副首都警察長官が執務しているので、そこが首都警察
のヘッドクオーターになっている。この本部敷地内には、首都警察の中枢部が集まってい
る。
統合サービスセンター Samsat
自動車盗難局 Direktorat Curanmor
ナルコバ捜査局 Direktorat Reserse Narkoba
交通局 Direktorat Lalu Lintas
首都地区交通マネージメントセンター Regional Traffic Management Center
教育局 Direktorat Samapta
重要施設保安局 Direktorat PAM OBVIT
特殊犯罪捜査局 Direktorat Reserse Kriminal Khusus
などがそれだ。

このジャカルタ首都警察は周辺のデポッ、ブカシ、タングランの各市警県警を管下に置い
ている。ジャカルタを取り巻くそれらの周辺地区は、言うまでもなくジャカルタの方が西
ジャワ州警察本部のあるバンドンよりもはるかに近い。住民の多数がジャカルタと密接な
つながりを持っているのだから、警察が州境で分離されるよりも効果的であることは疑い
があるまい。[ 完 ]