「ヴェルテフレーデン(7)」(2020年04月22日)

オランダ植民地政庁はヴァーテルロー広場にもうひとつ記念碑を建てた。ヴィッテハウス
の表玄関の真正面で広場の最遠部の位置に1855年、ミヒュールスAndreas Victor 
Michiels少将記念碑が建設された。現在のイスティクラルIstiqlalモスク南側一方通行道
路プルウィラPerwira通りがバンテン広場に突き当たって来る場所だ。

ミヒュールス少将は東インド植民地軍首脳部にまで昇った人物で、1837年に西スマト
ラ海岸部レシデンに任命されていたとき、ナタル監視官だったエドゥアール・ダウス・デ
ッカーEduard Douwes Dekkerに対して厳しい処分を与えている。それを忘れなかったデッ
カーは小説マックス・ハフェラアルの中で、かれをファン・ダームVan Damme将軍の名前
で登場させた。

1849年3月に東インド植民地軍がバリの諸王国に対して行った征服戦(第三次バリ進
攻)のとき、植民地軍はいくつかの王国に対して勝利をおさめたが、クルンクンKlungkung
王国のゴアラワGoa LawahとクサンバKusambaを占領したものの、1849年5月23日、
バリ人決死隊の夜襲のために司令官ミヒュールス将軍は一命を落とした。植民地政庁はか
れの偉勲を称えて記念碑を国家中央プラザの一隅に設けたということだ。

このミヒュールス記念碑も日本軍がバタヴィアを占領したあとの1943年3月7日ごろ
に、他の像や記念碑とほぼ同時に破壊されたという記述がネット内に見つかっており、そ
うなると、クーンの像だけを破壊しなかった日本軍の意図の不可解さが一層高まって来る
のである。


ヴィッテハウスとパレード場の南側は将校官舎や兵営、諸軍本部建物や兵器庫などで埋め
られた。ダンデルスがジャワ島防衛のテコ入れを行った時期の東インド軍事力の中枢はV
OCの残した軍隊になるはずと誰しも考えるだろうが、VOCの軍事力は会社と一緒に崩
壊していたのである。オランダ本国がVOCの全資産を引き継いでから、本国から軍兵の
補充がなされたのかどうかはよく分からない。

フランスの支配下に落ちたオランダから逃れてイギリスに庇護されたオラニェ王家がオラ
ンダ国民に対仏非協力・対英協力を呼びかけていたのだから、ジャワ島にいるオランダ人
の中にダンデルスの指揮するジャワ島防衛に確信を抱けない、アンビヴァレンツな精神状
態になっている者がいなかったわけがなく、フランスのために働いているオランダ人ダン
デルスにとっては全幅の信頼を置けない状況がそこに存在していただろうことは想像に余
りある。

VOCの軍隊というのは最初、VOC本社がそのために雇用したヨーロッパ人とマルク〜
バタヴィアのVOC現地本部が雇用したアジア人戦闘員、そしてプリブミ奴隷兵士で構成
されていた。関ケ原の合戦後に日本人サムライ戦闘員が増加した話はよく知られている。
メステルコルネリスの南にあるカンプンムラユを興したワン・アブドゥル・バグスWan 
Abdul Bagusの一党もVOCに雇用された戦闘部隊だったし、ウントゥン・スロパティ
Untung Suropatiはバリ人奴隷部隊を統率する、自分も奴隷身分の指揮官だった。

VOCの場合、非軍人として雇用された者でも非常事態になれば全員が武器を持って戦っ
たから、軍人の数だけで軍事力を云々するのは意味がないだろう。1622年のバタヴィ
ア守備隊はわずか143人の正式VOC社員から成っていた。オランダ人57人、フラマ
ン人・ワロン人17人、ドイツ・スイス・イギリス・スコットランド・アイルランド・デ
ンマーク人60人、国籍不明者9人というのがその内訳だ。アジア人戦闘員や奴隷兵士は
人数不明だが、その時期はまだマルクの方で層が厚かったように思われる。[ 続く ]