「ヴェルテフレーデン(15)」(2020年05月05日)

ヴィッテハウスすぐ傍らのこの建物はインドネシア語でGedung Bintang Timur「東星館」
と命名されたものの、プリブミ庶民たちはその名前を呼ばずにたいてい悪魔館Gedung 
Setan/rumah setanと呼んだ。その理由に、この建物が空き家になっていた時期に、建物
警備員や近くを通る通行人の耳に演説の声と多数の聴衆のざわめきや笑い声がどこからと
もなく聞こえてきたり、昔の服装をしたオランダ人トアンが建物フロントポーチに歩み寄
り、柱の間の向こう側に姿を消すありさまを目にすることがときどき、しかし何年にもわ
たって起こった、という話が述べられている。

別の論者の意見では、フリーメーソンが行っている会合に集まって来るひとびとの様子が
いかにも秘密めいており、また中で行われていることが魔教の神を崇めているように想像
されるためにその名が付けられた、と述べられている。後者の意見と似たようなものは西
洋人の間でも人口に膾炙していた。一般社会がフリーメーソンに対して抱いた印象は不審
と疑惑に満ちていたようだ。その秘密結社はオカルト科学の開発に努めており、錬金術や
魔術の解明のために悪魔的儀式を実践していると疑われていたことはよく知られている。


ところで、インドネシアはイスラム文化の国だからユダヤ系の人間は存在しないなどとい
う浅薄な見解は、歴史を知らない者が陥りやすい落とし穴だろう。植民地時代にユダヤ系
オランダ人やヨーロッパ人がやって来なかったはずがなく、レイスウェイクがバタヴィア
トップクラスの商業中心だった時代、店主の中にユダヤ系の人間は数えきれないほどいた
という話になっている。その時代、ユダヤ系の人間はみんなどこかの国の国民になってい
たから、ユダヤという属性名称が出て来ないのも当然のことで、その辺りのことが弁別で
きなければ実態は見えてこないのではないだろうか。

もっと想像を絶するような話としては、ヨーロッパ人がやってくる以前からアラブ系ユダ
ヤ人が商人としてヌサンタラに渡って来ていたというものもある。分類する必要があった
ときはイスラム教徒に分類されていたそうだが、実態としてはユダヤ教徒であるという者
も少なからずいたようだ。1923年にはスラバヤにシナゴーグが建てられており、ユダ
ヤ人コミュニティの存在をそれが明示している。アラブ対ユダヤという観念的な視点に取
りつかれてしまうと、この種の話は理解できなくなるにちがいあるまい。

歴代の東インド総督の中にもフリーメーソン会員がいたし、高名な画家ラデン・サレRaden 
Salehも会員だったそうだ。インドネシア最初の青年組織ブディウトモがSTOVIA学生の間で
発足してから、そのメンバーの多くもフリーメーソン会員になったらしい。フリーメーソ
ン本部が1926年4月30日から5月2日まで開催された第一回青年会議の会場に使わ
れたことや、また通りの名称が独立後にブディウトモ通りに替えられたこと、更にこのブ
ロックの北側がストモ医師 Dr. Sutomo通りになっていることなどを思い合わせると、こ
のブロックにはそれらを結び合わせる何らかの縁があったのかもしれない。

1962年、スカルノ大統領は大統領決定書第264号を公布して、フリーメーソンソサ
エティおよび他の6社会団体に対する禁令を下した。アブドゥラッマン・ワヒッ第4代大
統領は2000年大統領決定書第69号を出して、1962年決定書第264号を取り消
した。40年近くにわたって禁令の檻に閉じ込められていたフリーメーソン会員はグス・
ドゥル大統領によって解放されたことになる。かれらはもはや、共産党員のように振舞わ
なくてもよい状況になっているということだ。[ 続く ]