「外へ出る」(2020年05月12日) ライター: 小説家・詩人、ロビー・A・ラッマン ソース: 2013年10月26日付けコンパス紙 "Keluar ke Luar" masuk ke dalam。keluar ke luar。言うまでもなくその表現は、現行EYD(改良綴字法) の原則に従った適正なものだ。ところがkeluar ke luarが耳に聞こえてくると、心に引っ かかり、わだかまる。これは触れておかなければならない問題だとわたしは思う。 英語でto enterはto go intoの意味であり、反対語のto exitはto go out ofとなってい る。それらはいずれも自立形態素であって、互いに動詞になっている。insideとoutside という互いに反対語をなしている言葉が英語の中にあることをわれわれは知っている。そ れらはどちらも前置詞として、また名詞として使われる。前置詞としてはそれぞれがdi dalam、di luarの意味を示し、名詞として使われるときには、bagian dalam、bagian luarを意味することになる。 ジャワ語では、mlebet nyang jeroとmetu nyang njoboが反対語をなしていて、mlebetと metu、jeroとnjoboが反対語の関係にある。では、ke luarとke dalamが反対語の関係にあ るのなら、masukの反対語はどうなってしかるべきなのか? これがインドネシア語の面白いところだ。masukやke dalamの反対語を探すと、まるで似 たようなものが見つかるのだから。ke dalamの反対語はke luarで、masukの反対語も keluarだ。まるでそっくりじゃないか。 話し言葉ではke luarもkeluarも区別がつかない。語形面で違いがやっと明白になる。ke luarはふたつの形態素からなる前置詞句である。国語センターのインドネシア語大辞典K BBIでdaerah,tempat, dan sebagainya yang tidak merupakan bagian dari sesuatu itu sendiriと定義されている名詞luarと、場所を示す前置詞keで構成されているものだ。 keluarの方は、KBBIによれば、bergerak dari sebelah dalam ke sebelah luarとい う語義の動詞となっている。 われわれが疑問とするべきは、「外から中へ移動する」という概念を表すのにmasukとい う語彙を持っている一方で、その反対に「中から外へ移動する」という概念にはどうして 前置詞と名詞を結合させて作られたkeluarという語彙が使われているのかということだ。 その答えは語源学の分野で見つけることができるようにわたしには思われる。プルワディ 編纂のサンスクリット=インドネシア語辞典からわれわれは、サンスクリット語rasukが インドネシア語masukに該当していることを知る。rasukは音変化を経た上で、masukとし てインドネシア語に入った。現代インドネシアではrasukもmasukも日常用語として使われ ている。KBBIはmerasukの語義を、memasuki tubuh manusia (tentang roh jahat)、 あるいはmendalam, meresap benar, berkesan benarなどとしている。 サンスクリット語でrasukの反対語はmimbaだ。残念ながらmimbaは、rasukが音変化を経た あげくmasukとしてインドネシア語に取り込まれたのとは同じ道を歩まなかった。インド ネシア語話者の言語世界では、mimbaでなく既にkeluarがしっかりと根を張っていたので ある。おかげでわれわれは、keluarを用いてしかke luarすることができないのだ。