「入るにはどこに出る?」(2020年05月13日)

ライター: ヨグヤカルタサンタマリア・アッマジャヤ大学教官、R・クンジャナ・ラハ
ルディ
ソース: 2008年8月14日付けビジネスインドネシア紙 "Masuknya keluar mana?"

あるとき、筆者はとあるビルの通路に入ろうとしていた。だが、この通路の先に本当に入
り口があるのだろうか?迷った筆者は守衛に尋ねた。
Mas, masuknya keluar mana?
守衛は困惑した顔で問い返す。
Gimana Pak?
ワンテンポ置いてから、守衛は納得した顔で答えた。
Oh... masuk sana Pak! Lewat gapura itu!
筆者は突然、自分の言葉が論理的に支離滅裂であることに気付いた。あとで思い返しても、
笑いがこみあげて来る。


言葉というものは、単語・句・文だけの問題ではない。同様に、発音や綴りだけの問題で
もない。言葉の中にはあらゆる要素が関わっている。必ず存在する言語習慣上の決まりも
その関連性の中にある。

ひとが誰かに話しかけるとき、それらの諸関係に注意を払わなければならない。そうしな
ければ、コミュニケーションに障害が生じる。文構造に誤りが生じたり、言語論理も支離
滅裂になってしまう。

往々にしてわれわれ自身も、自分の話す文構造が間違っていることに気付かない。
Setelah bang jo belok kiri! という日常会話も、本当は間違っている。ジョクジャに十
分親しんでいるひとには多分わかるだろう。ところがジョクジャにやってくる旅行者は
bang joをAbang Joと思って進んで行くが、行けども行けどもジョー兄貴にはお目にかか
らないため、訳が分からなくなる。bang joとは赤とグリーンの信号機を意味しているの
だから。発話者が言葉に対して与えている役割の点で、その文は論理的なミスを犯してい
ることになる。

最近では、kartu prabayarのprabayarという言葉の用法が問題になった。この語彙の構造
はたいていのひとに分かる。sebelumを意味するpraとbayarの結合したこの語彙は支払い
前を意味することになる。ところが実際は違っている。ファシリティを利用する前に支払
いが行われているではないか。だったらprabayarでなくてpascabayarだろうに。この種の
誤りを正していくのは容易でない。諸次元のビジネスが既にそこにからまってしまってい
るのだから。


どうしてマスメディアはmengejar kemiskinanという表現をいつまでも続けているのだろ
うか?kemiskinan dikejarなどという観念は奇妙だ。貧困はわれわれが追いかけるもので
なく、克服し、離れ去るべきものではないか。だから正確にはmengatasi kemiskinan, 
meninggalkan kemiskinanと言うべきだろう。mengentaskan kemiskinanが語彙の誤用であ
ることをわれわれは知っておくべきだ。hentaskanされるべきものは、kemiskinanでなく
てmasyarakatnya yang miskinだというのに。

次の文も論理的に間違った文である。Ia lebih gemar makan daging ayam daripada 
kambing. 話者はいったい何を比較しているのか?主語としてのiaと主語としてのkambing
なのか、それとも主語iaにとっての述語makanの目的語を比較しているのか?このような
形式は多義性でわれわれを悩す。

正しい表現は、Ia lebih gemar makan daging ayam daripada makan daging kambing.だ
ろう。不適切に省略が行われると、文意は間違いになりかねない。似たような例は、たと
えばこれだ。Ia lebih pintar merangkai bunga daripada buah.

省略の結果、この文の意味は混乱の態である。的確な表現は、Ia lebih pintar merangkai 
bunga daripada merangkai buah.ではあるまいか。

次の文は何が間違っているのだろうか? Karena terlambat, direktur marah.
主語はdirekturなのだろうが、terlambatしたのは誰なのか? direktur本人か、それとも
direkturでない誰かなのか?これは文構造の論理までもが不適切だ。Karena terlambat,
ia dimarahi oleh direktur. とされるべきだろう。


論理構造に間違いのある文例はいくらでも見つけ出せる。われわれ自身が往々にして間違
った思い込みに気付かず、同様に自分の論理的間違いに気付かない。「言っている内容が
理解されれば、それでいいんだよ。」とひとは言うだろう。だがそれはそう簡単なことで
はない。言語上の文意に対する理解は、言語の形態的要素と無縁でないのだ。間違った言
語形態が用いられれば、意図を誤解する可能性の扉は大きく開かれる。

意図の理解ばかりを気にかけて適切な言語運用を忘れているあなたは、言語の尊厳を足蹴
にしている人間になりかねない。もしもMasuknya keluar mana?のような表現を容認し続
けるなら、インドネシア語は誤用に満ちたものになる。そんなことが続いたら、インドネ
シア語はほどなく別のしっかりした言語に駆逐されてしまうだろう。