「コニングスプレイン(4)」(2020年05月15日)

計画された4,440本のパイルの杭打ちが開始されたのは1961年8月24日だった
が、既に上部構造が撤去されたフレデリック・ヘンドリック要塞の跡地での杭打ちが進ま
なくなった。残っていた要塞の土台部分のレンガがたいへん頑丈で、杭がそれを突き破る
ことができなかったためだ。

フレデリック・ヘンドリック要塞がたいへん頑丈に作られていたことは、ダイナマイトで
爆破しながら崩して行く陸軍工兵隊の作業に一年半の歳月がかけられたことが十二分に物
語っている。杭打ち工事が中断されて、要塞の土台の掘り起こし作業に日数をかけたあげ
く、4,440本のパイルがすべて打ち込まれて杭打ちが完了したのは1965年3月だ
った。

9.32Haの敷地の中央に建てられた5階建て高さ55.8メートルの建物は床面積が
3.7Haで、直径45メートルの半球ドームを支える円柱は高さ17メートル直径2.
5メートル、そして預言者ムハンマッの誕生日ラビウラワルRabiulawal月12日にちなん
で円柱は12本とされた。ドームの頂上に建てられた避雷針にはシンボルの月と星が直径
3メートルの透かし彫りで飾られ、ドームの外装にはドイツ製の鋼鉄86トンが使われて
その上にタイルが敷き詰められ、日光に輝く華麗なモスクの威容が四方に誇示されている。

5階建ては一日5回の礼拝を象徴し、東側に作られた塔は高さが地上高6,666センチ
直径が5メートルになっていて、アルクルアンの章句の数にからめてのものにされている。

建物はすべてが鉄筋コンクリートでその上に東ジャワ州トゥルンガグンTulungagungから
切り出された大理石9.34万平米と1.14万平米のタイルが敷き詰められ、扉や窓と
その枠はアルミとガラスが使われた。

20万人収容可能なこのインドネシア民族のシンボルとなるべき大モスクが1千年以上保
たれることをスカルノは望み、木材や瓦など寿命の短い素材を使わないように求めたので
ある。独立したインドネシア民族の寿命も一千年以上続くように願ったことは言うまでも
あるまい。

このモスクに備えられた太鼓は直径2メートル長さ3メートルで重さは2.3トンあり、
東カリマンタンで得られた樹齢3百年の赤ムランティmeranti merahの幹をくりぬいて作
られた。太鼓の表は雄牛の皮、裏は雌牛の皮が張られている。この太鼓はチカンペッ
Cikampek地区で15人の太鼓職人が60日かけて作ったそうだ。

イスティクラルモスクの公式オープンは1978年2月22日で、午前9〜11時の間、
近くを通る鉄道は臨時運休が命じられ、スハルト第2代大統領がそのインドネシア最大の
モスク太鼓を打ち鳴らして開館を宣した。


イスティクラルモスクの土地とモナス広場は高架鉄道線路と道路をはさんで接しているの
だが、今その場所へ行ってみれば分かるとおり、接しているという表現がもたらす印象は
皆無に近い。両者を切り離している線路と道路を想像の中で取り去ってみれば、両者が接
しているという状態が見えて来る。ヴィルヘルミナパルクとコニングスプレインはつなが
っていたのである。ヴァーテルロー広場のすぐ西側がヴィルヘルミナパルクであり、その
空間がコニングスプレインまでつながっているというのは、きわめて壮大なコンセプトだ
ったようにわたしには思える。もちろんオランダ人が歴代、そこまで意図してそのエリア
を扱っていたかどうかは知る由もない。ただ、ヴァーテルロー広場北側のカテドラル教会
とコニングスプレイン東側の国鉄ガンビル駅向かいに1839年に建てられたイマヌエル
教会(Gereja Immanuel、別名エマヌエルEmanuel教会だが、教会側の正式名称はイマヌエ
ルになっている)がバタヴィアの中心地区における宗教風土を象徴していたのは明らかで
あり、スカルノが固執したイスティクラルモスクの立地場所があそこでなければならなか
った理由をそれが物語っているかのようだ。[ 続く ]