「コニングスプレイン(5)」(2020年05月18日) ダンデルスがシャンドマルChamp de Marsと呼ぶようになる前のブッフェルスフェルドは その名の通り牛の放牧やレンガ作りに使われていた。その場所は当時のバタヴィアの南端 に当たり、その東西南は少しずつ開け始めていたようだ。ヴェルテフレーデン南部が東側、 プトジョPetojo地区が西側にあって、スネン市場⇔プラパタン通り⇔クブンシリ通り⇔タ ナアバン市場という線の北側は徐々に開けていたようだが、そこは新バタヴィアの南端で あることから、先に北部に充満したエリート層が南部ダウンタウンまで下って来るのに多 少の時差が生じたのも無理はあるまい。クブンシリ通りの南側に高級住宅地としてメンテ ンMenteng地区が開発されるのは20世紀に入ってからだ。 シャンドマルが軍隊演習場にされた事実から、ダンデルスがシャンドマルの東西南エリア をどのように見ていたかは明らかだろう。ダンデルスが東インドから去り、ラフルズがジ ャワ統治の采配を振るうようになったとき、シャンドマルが軍隊演習場の役割を終えたの ではないかとわたしは想像する。 オランダがナポレオンの支配を振り払って独立王国になったとき、国王ヴィレム1世即位 を祝して、ラフルズはシャンドマルをコニングスプレインという名称に変えた。しかしプ リブミはコニングスプレインと呼ばずにガンビル広場Lapangan Gambirという名前で通し た。 実は、ブッフェルスフェルドがコニングスプレインと名を変えるはるか以前に、バタヴィ アにコニングスプレインが存在していた。1740年の地図には、バタヴィア城Kasteel Bataviaの東側に運河をはさんで隣接する空き地がコニングスプレインと記されている。 今のロダンラヤLodan Raya通りが通っている地区で中小規模の工場が立て込んでいるエリ アだ。 多分この広場でVOC軍の演習や閲兵などが行われていたように思われる。総督庁はバタ ヴィア城内に置かれていたから、総督庁とコニングスプレインの関係はダンデルス→ラフ ルズのときと酷似していると言えなくもない。つまりレイスウェイクの総督庁とシャンド マルという関係だ。 おまけに総督庁と儀典プラザの関係についても、VOC時代にはバタヴィア市庁舎前のス タッハウスプレインStadhuisplein(今のファタヒラ公園)が儀典プラザになっていたわ けで、ダンデルス→ラフルズ時代のレイスウェイクとヴァーテルロープレインという関係 によく似ていて、まるで歴史が繰り返されているかのような気になってくるありさまだ。 で、そのヴィレム1世は東インドでプロテスタントの諸分派を合体させることを強く望み、 その受け皿となるべき教会の建設を命じた。1834年にバタヴィアのコニングスプレイ ン東Koningsplein Oostで建設工事が開始され、1839年8月24日に完成した教会は ヴィレムスケルクWillemskerkと呼ばれた。 クラシシズムのユニークな建築様式を持つヴィレムスケルクは1830年に建てられた東 インド植民地軍司令官官舎(現在のパンチャシラ館Gedung Pancasila)の南西3百メート ルに位置しているが、蛇行するチリウン川がその間を横切っており、教会はヴェルテフレ ーデンの外にある。 日本軍政期にヴィレムスケルクは忠霊堂Churei-doという名に変えられ、戦没した日本軍 人用の納骨堂として使われた。1948年になってインドネシア共和国に変わったプロテ スタント教会統一機関の西部インドネシア地域本部 Gereja Protestan di Indonesia bagian Barat (GPIB)がオランダ語名称をインドネシア語に変えるためにGPIB Immanuelを 正式名称として登録した。[ 続く ]