「プレセタンはジョグジャのお家芸(後)」(2020年05月15日)

久しぶりに顔を出したかの女に教授は尋ねた。
Kok, lama tidak muncul, Mbak? Ke mana saja?
教え子は答える。
Sibuk, Pak, ngurus anak-anak.
教授は進捗状況を尋ねた。
Lalu, tesisnya sudah sampai bab berapa?
教え子の返事は:
Babblas, Pak! だった。

この生徒はヨグヤカルタの地元出身者だった。もし他地方出身の学生が同じような状況に
なったら、返事はきっと違うものになる、と教授は断言した。


バリ出身のデワ教授は、ジャワ語で言うところのgojekan(原意は「ふざけることやその
産物」で、ここではpelesetanに相当させて用いられている。gojeganとも綴られる。
[g]≒[k]の図式がここにも見られる。)の能力がヨグヤ人はずば抜けて優れていると言う。

上の教え子の例のように、肩を張らず照れもせず、その場その場に応じたゴジェカンが即
興で飛び出して来るのだから。教官仲間の中にも、ヨグヤ出身でその能力に長けた者は何
人もいる。前もって用意しているわけでもなければ、考えたあげくに述べられるものでも
ない。かれらの当意即妙さに対して自分は足元にも及ばない、とデワ教授は語るのである。


ヨグヤカルタという文化都市の住民にとって、そんな形のコミュニケーションは日常茶飯
事のものになっている。プレセタンは日常生活においてなくてはならない娯楽になってい
るのだ。

ヨグヤカルタの街中を散策すれば、ヨグヤ式センスの看板が目に飛び込んでくる。
ISAKUIKIと書かれたレストランの看板は、インドネシア語でBisaku hanya ini.を意味し
ている。レストラン‐カラオケTAKASHIMURA (インドネシア語でSaya kasih murah.)、
KENTUKU FRIED CHIKEN (Disuruh beli fried chiken.)、AYAM GORENG KENCHIK (Chikenを
逆転させている)、書店BEN WAZIS (Supaya pandai)、薬局BENMARI (Biar sembuh)。
Rumah makan Padang Jawa (オーナーがパダン人でないパダン料理店)の中にJINGGLANG
という看板が見つかる。その言葉はパダン料理店がよく使う、Andalas, Lembah Anai, 
Bundo Kanduang, Bareh Solokなどのパダン語ミナン語なのでなく、純然たるジャワ語で
terang benderangを意味している。

Yogyakarta adalah kota pelesetan.とその町を形容するひともいる。ヨグヤカルタで地
元の人間と言葉を交わすと、プレセタンで意表を衝かれるから気を付けろ、という警告か
もしれない。実際にヨグヤ人と会話すると、必ずと言っていいほどプレセタンが顔を出す。
だからヨグヤに来れば、常にユーモアのセンスを忘れてはならないのである。

ジョクジャで有名な土産物店Dagadu Djogjaが作ったオリジナルステッカーの中に、そん
なヨグヤを象徴するものがある。

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slippery when Wet
スリップしている車の絵
DJOKDJA
0,0km

AWAS
PLESETAN
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ヨグヤ人はヨグヤカルタのアイデンティティ的特徴を探している。上のステッカーデザイ
ンはその答えのひとつであるにちがいない。

言葉遊び、あるいはプレセタンで行われる日常会話は、言語面から見たヨグヤ人の特徴の
ひとつになっている。デワ教授はそれに関して、言葉はコンセプト・事実・意見・感情・
種々の情報などを伝えるためのコミュニケーションツールであるという定義は、ヨグヤで
は完ぺきに的を射たものではない、とコメントする。

ヨグヤ人にとっては、それに加えてあらゆる形態のプレセタンが対人コミュニケーション
の中に盛り込まれている。上で紹介したさまざまなプレセタンは、コミュニケーションの
中にユーモアを持ち込む機能を果たしているのである。[ 完 ]