「コニングスプレイン(7)」(2020年05月20日)

東西南方向への開拓がゆるゆると進んでいた当時のシャンドマル北側、つまりレイスウェ
イク地区は既に新バタヴィアNiuwe Batavia中心部と呼ぶにふさわしい発展を見せていた。
モーレンフリート南端に接するレイスウェイク地区西端は1814年に完成したハルモニ
ー社交場が壮麗な威容を示し、その東隣にはファン・ブラアムJacob Andries van Braam
のカントリーハウスがあって、そこは1821年に総督専用のレイスウェイクホテルに変
身した。

ファン・ブラアムの邸宅は2階建てで、裏には豪華な庭園が作られてブッフェルスフェル
ドまでつながっていた。1848年に2階が崩れかかったために改装工事が行われて現在
のような姿に変わっている。庭園に出るテラスも後に大きく拡張されてレセプションパー
ティなどができる規模に作り変えられた。


その東隣の現在ビナグラハBina Grahaがある土地は1794年にピーテル・テンシーPie-
ter Tencyが手に入れて、そこに豪華な建物を建てた。1811年にラフルズがその建物
を2万7千レイクスダルダーで買い取って改造し、しばらくそこで暮らしてから、バイテ
ンゾルフ宮殿に移るときに部下の高官の住居にしたという話になっている。

1840年、その建物はホテルロワイヤルHotel Royaleとなり、1846年にホテルネー
デルランデンHotel der Nederlandenに変わった。このホテルネーデルランデンはホテル
デザンドHotel Des Indesと並んでバタヴィアの最高級ホテルのひとつに数えられた。共
和国時代になってダルマニルマラDharma Nirmalaにホテル名が変えられてから1969年
に建物は撤去されて、ビナグラハビルがその跡地に建てられた。

スカルノ大統領が独立宮殿の主だった時期には、大統領親衛部隊チャクラビラワTjakra-
birawaが司令部をそこに置いていた。スハルト大統領がG30S事件の処理を完了させた
後、チャクラビラワは解散させられ、同時にホテル建物も撤去されたという流れだったよ
うだ。


それらの建物はすべて表玄関が運河南沿いの道(今のヴェテラン通り)に面していた。コ
ニングスプレインは建物の裏側にあり、そちらには背が向けられていたのである。その状
況に変化が起こったのは、19世紀後半だ。

レイスウェイクホテルが手狭になったため、裏庭に新しい建物が建設されることになり、
この新館は表門をコニングスプレインに向けて1873年に建設が開始され、1879年
にオープンした。それが現在の大統領宮殿Istana Merdekaである。植民地時代はコニング
スプレイン宮殿Koningsplein Paleisと呼ばれた。

この建物を使ったのは植民地時代に15人の総督、日本軍政期に3人の最高指揮官、そし
て共和国独立後のスカルノ大統領と続くのだが、そこをフルタイムの居所および執務所と
して使ったのは日本軍人とスカルノ大統領、そしてアブドゥラッマン・ワヒッ第4代大統
領だけで、共和国時代になってもたいていの大統領は宮殿の外にある自宅に住んだ。

独立宮殿にならって、その更に東側に建てられた最高裁判所や内務省が南に向けて表門を
構えており、コニングスプレインからモナス広場へと格上げされたことの帰結をわれわれ
はそこに見出すことになる。


ホテルネーデルランデンの東側の道(今のヴェテラン?通り)は植民地時代にガンセクレ
タリーGang Secretarieという名称だった。ホテルネーデルランデンになる前、その建物
には総督官房が入っていたからだ。

この通りの東側にある広い土地に貴金属加工・時計製作・宝石販売のファン・アルケンが
店を開いたのは1860年代だったようだ。アムステルダムのファン・アルケンがバタヴ
ィアに進出してきたのは1851年で、最初はジュアンダJuanda通り側のノードウェイク
で開店した。1854年にオランダ王家の御用達を認められた同社は、ジャワでも186
1年にヨグヤとソロの王家から王宮御用達の指名を受けている。

ファン・アルケンはバタヴィアで大いに稼いだらしく、レイスウェイクの地所を8千平米
まで増やした。バタヴィアの一等地の地主としてそれほど広大な面積を所有すれば、一大
分限者としてだれしもが一目置くにちがいあるまい。だが1942年に悲劇がかれらを襲
ったことは間違いないようだ。[ 続く ]