「インドネシア消防小史(3)」(2020年05月20日)

1943年4月20日、ジャカルタの消防署は公式名称がSyoobootaiに変えられた。19
57年、ショーボータイは公式名称がBarisan Pemadam Kebakaranに変えられた。196
9年、アリ・サディキン知事はバリサンプマダムクバカランをDinas Pemadam Kebakaran
に変えた。1975年、ディナスプマダムクバカランの名称からプマダムが削除されて、
Dinas Kebakaranに変更された。火災の一切を扱うのであって、消火だけが仕事ではない、
という意図を反映したものだ。

現在、行政管理を行う局と現場活動を行う署は完全に分離され、首都ジャカルタの署は三
か所に設けられている。クタパンでは統括本部と中央ジャカルタ市消防署が同居し、クバ
ヨランバルにジャカルタ南部地区署、マトラマンラヤにジャカルタ東部地区署が置かれて
いる。そしてその下に、各市が市消防署を設けている。

タマンミニにはジャカルタ消防博物館Museum Damkar DKIがある。ジャカルタの消防の歴
史が種々のドキュメンテーションで紹介されているほかに、1980年代にジャカルタの
街を駆け巡ったいすゞ製消防車2台も展示されている。

車には手動のサイレンや後尾に据え付けられた鐘がそのままの形で置かれている。この消
防車は動きながら散水できる機能を備えていたが、現在の消防車はその機能を持っていな
い。


ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがジャヤカルタを奪って城壁に囲まれたバタヴィアを建
設したころ、周辺一帯はジャングルだった。バタヴィアの真南に、後にモーレンフリート
Molenvlietと名付けられるおよそ3.5キロの運河を掘り、さらに現在イスティクラルモ
スクがある場所を流れているチリウン川とモーレンフリートを結ぶ1キロほどの運河が掘
られて、バタヴィア城市内に流れ込む水流が勢いを増し、その水流が輸送と産業の主要な
動力源になった。

運河の流域で盛んに巨木の伐採が行われ、家屋や船舶を造るための材料にするため運河を
使って城市内に流された。更にモーレンフリートの岸にはサトウキビ搾り工場や、地酒ア
ラッarak、あるいは火薬粉等々の製造工場も建てられ、加工処理の動力源として水車が使
われた。いっとき運河の岸辺に大小の水車が並んだことからモーレンフリートという名称
が与えられたという話になっている。

乾季に行われた伐採活動や工場用地の開拓などが森林火災を引き起こしたようだ。そのと
きにどのような消火活動が行われたのかはよく分からない。17〜18世紀を通して、オ
ランダ人のマジョリティはバタヴィア城市内に暮らしていた。城市内で火事が起こらなか
ったはずはあるまい。


その時期、ヨーロッパ人のライフスタイルは日常生活にトイレの欠如していた時代であり、
社会生活上のエチケットとしてかれらは屋内の自分の部屋(大邸宅は違ったかもしれない
が)で桶に排泄し、それを召使が捨てに行くというのが習慣になっていたそうだ。ジャカ
ルタのコタトゥアKota Tua観光を行って、昔のバタヴィア市庁舎Stadhuisだった今のジャ
カルタ歴史博物館や、少し南のガジャマダGajah Mada通り沿いにある国立公文書館などを
見学すると、トイレのなかった建物の実例を目にすることになるだろう。

で、四六時中住民の誰かれが川や運河に汚物を流すのはよろしくないという市政方針が出
て、1630年に21時から翌朝4時までに限って汚物を流してよいと言う条例が定めら
れた。オランダ人は夜9時になると突然町中の空気に異変が起こることの原因を詩的に表
現した。9時の花negenuursbloemenとは、言い得て妙である。[ 続く ]