「糞尿文学(2)」(2020年05月27日)

その短編の結末はもちろんgila(クレージー)だった。ひったくり容疑者は放免された。
pispotの中の排泄便の中にネックレスは見つからなかったのだから。だが本当は何が起こ
っていたのだろうか?主人公は正直に物語った。
「オレはひったくりじゃないが、とうとうやってしまった。そしてネックレスは三回pis-
potに出て来たんだ。ただ、おれは出てきたやつをまたすぐに呑み込んだんだよ。」

tinjaというものはそれ自体が、咲き誇る花のように、崇拝の対象になるものなのだろう
か?言うまでもなく、ノーだ。オルバの誇る建設の轟ろきの真っただ中でひとはそれほど
までに貧しくなるのだということをハムサッは描いているのである。汚物の中のネックレ
スを呑み込んだ男はひったくりを職業にしているのではない。「子供が重病で、金が必要
なんだ。妻は家でもう絶望している。医者の要求は高額なんだ。」貧困は人間をtinjaの
海に沈めた。


1993年のRumah Jambanの中でハムサッはふたたびtinjaを権力に反抗する武器に使っ
た。自宅の土地を三回削られた主人公スクリは結局、湿地でしかない代償移転用地を受け
入れた。かれはそこを養魚池にし、タバコを景品にしてカンプン住民にそこで排便するよ
う誘った。その結果、ひとびとは続々とかれの養魚池にやってきた。中のひとりはこう語
る。

このカンプンは貧乏人が多すぎる。かれらの中にはタバコよりも百ルピアを欲しがる者が
いる。ひとり頭百ルピアだ。もしその一家が十人だったら?何もないよりはけっこうな金
になるだろう。でも条件がある。排泄物はルマンlemang(竹筒飯の一種)のような塊りで
なきゃいけない。アヒルの糞みたいな水様便だったら、池のオーナーは五十ルピアしかく
れない。だからわれわれは便のクオリティをケアしている。われわれはいい加減な食事を
しないんだ。

草の根民衆がいかに貧困であるかが、ふたたび描き出されている。貧困者になってしまえ
ば、もう反抗は無理なのだろうか?スクリの反抗スタイルはこうだ。

この地区は貧乏人が多すぎる。権力に対抗するのは不可能だが、わしにも復讐のやり方が
ある。それでわしは満足する。わしは慰められる。わしはカンプン住民のtaiを集める。
それを魚に食わせる。その魚をわしは町の住人の皿に載せる。わしは慰められる。わしの
心は満たされる。町の住人はカンプン住民のtaiを食ってるんだ。わしの心の恨みつらみ
のはけ口として、上流階層の者たちをわしは標的に選んだ。わしは育てた魚をジャカルタ
の高級レストランに送っているが、おかしなことに、そのレストランは大人気だ。わしの
送った魚が高級車に乗ってやって来る客たちの間で飛ぶように食されているとレストラン
オーナーは言っている。わしの土地を削り、わしをあの家から追い立てたやつもきっと必
ずあそこに食べに来るはずだ。それを考えると、わしの心は大いに慰められる。わしの復
讐のやり方がこれだ。カンプン住民のtaiをやつらの皿に載せてやるのだ!

こうして糞便はありきたりの糞便でなく、ありきたりの汚物でもなくなる。常に追い立て
をする側に回っている都市住民に対して、いつも居所から追い立てをくらうカンプン住民
や貧困者の反抗精神を示すものに、それはなるのである。しかしながら、この階級対立は
カール・マルクスが夢見た階級のない社会に向かわず、tinjaにイデオロギー批判の意義
を与えるのだった。


かつて、あるドラマ脚本コンテストの総評の中で、インドネシア人作家がトイレを話題に
することの巧みさについてグナワン・モハマッGoenawan Mohammadがコメントしたことが
ある。きれいに描くのは下手だが、汚く書くのはとてもうまい、と。とはいえ、そのうち
にtinjaは社会政治的文脈における文学現象として、「クリスタルのきらめきを発する」
(小説サマンの裏表紙に書かれたイグナス・クレーデンの書評)ようになるとわたしは思
う。[ 続く ]