「コニングスプレイン(17)」(2020年06月08日)

さて、コニングスプレインそのものは時代と共にどのように変遷して行っただろうか?何
しろ1キロ四方の巨大な広場だ。さすがに牛飼いもレンガ作りも復活することはなかった
が、その広大なスペースをどうしようかと植民地政庁上層部は頭をひねったにちがいある
まい。1860年ごろには、四角形の広場を対角線状に交わる近道ができていた。そのこ
ろ、この広大な草地は馬を駆ったり競馬を楽しむような使い方しかなされなかったのでは
あるまいか。


1861年に政府系の東インド工業農業会社Nederlandsch-Indische Maatschappij van 
Nijverheid en Landbouwがバタヴィアで家畜市場祭りを行った。翌年、プリブミ教育監視
官ファン・デル・チェイスvan der Chijsがその祭りにさまざまな文化的アトラクション
を加えることを提案した。観覧車を置き、ワヤン劇の上演やトペンロンゲンの歌舞、ピエ
ロや奇術などのショーで観客を楽しませ、あるいはピナンの木登りやサックレースなどの
娯楽競技を用意する。

おかげで1862年9月の第二回フェスティバルは大勢のプリブミが娯楽を求めて会場を
賑わした。言うまでもなく、コニングスプレイン南部の一角がその会場に使われたのであ
る。プリブミはガンビル広場の市Pasar Gambirとその催しを呼んだ。

このパサルガンビルは年次の催し物となって毎年行われ、1887年にはオランダ国王7
0歳の誕生日を祝してヨーロッパ人階層は軍社交場コンコルディアで、プリブミはパサル
ガンビルで、盛大な祝賀式典が催された。

1904年のパサルガンビルは、従来のものから少し趣向が変わって来た。かつての家畜
市から脱皮して、プリブミ産業で作られる工産品の見本市へと変化し始める。それが完全
な形を取ったのは1906年だった。タングランのパナマ帽、バンテンの焼き物、バイテ
ンゾルフの金銀細工、スカブミの木製品や木彫、インディヒヤンやシガパルナの籐や竹の
編み物、チプルスのバティック、スムダンの銅加工品、タナアバンのバティック。いやバ
タヴィアとスンダ地方ばかりではない。ジュパラの木彫や家具からスラバヤの金属加工品、
パレンバンやアチェの黄金細工に至るまで、全国規模の国産品見本市へと性質が変わって
行った。

1903年にバタヴィア市Stad Bataviaはヴェルテフレーデンを併せてバタヴィア中規模
市Gemeente Bataviaに昇格した。1904年にパサルガンビルの内容が変化しはじめたの
は、へメンテとしての産業振興の使命感がなせるわざだったのかもしれない。

毎年パサルガンビルは百から二百の展示スタンドが作られ、メインゲートのデザインも年
ごとに入れ替わって地方の建築物を模して建てられ、年を追って新たな趣向で飾られた。
プリブミ社会の人気も上々で、夕方から夜にかけての涼風の中を散歩がてらコニングスプ
レインに集まって来ては、世の中の変化を感じ取り、また種々のアトラクションを楽しん
だ。

1933年9月5日の新聞記事は1日から4日までの入場者数を報道していた。それを見
るとヨーロッパ人ほぼ2万人、非プリブミ東洋人2万3千人、プリブミは約8万人で圧倒
的なマジョリティを占めている。この年のパサルガンビル入場者総数は302,718人
で、前年とほぼ同程度だったそうだ。

開催日数は最初一週間だったが、人気が高まるにつれて期間が長くなっていった。入場料
はヨーロッパ人25セン、プリブミ10センだった。非プリブミ東洋人はまた別だったに
違いない。開会日と閉会日、そして女王の誕生日には美しい花火が夜空を飾った。

会場の中ではヨーロッパ人向けにレストランが開かれたし、会場内や入口ゲートの外では
プリブミが飲食ワルンを開店して飲食品を販売した。アイスクリームサロン「ラグサ」も
ある年、会場内に出店を設けたことがある。ローカル食はブタウィ名物タンジュンドゥレ
ンやワルンブンチッのクラットゥロールkerak telor、プタンブランのラクサlaksa、マン
ガライのバンドレッbandrekなどがパサルガンビルで楽しめた。

規模が大きくなったパサルガンビルは、コニングスプレイン南部の中央から西側部分で毎
年行われている。東側にはスポーツ施設がつくられていたため、西側を使うしかなかった。
1930年の写真を見ると、パサルガンビルの北端は国立博物館の位置にあり、またクブ
ンシリ通りからガンホレを通ってコニングスプレイン南通りに作られたメインゲートに入
って行く形になっている。[ 続く ]