「コニングスプレイン(18)」(2020年06月09日)

日本軍の進攻でパサルガンビルは開かれなくなり、共和国完全独立後もなかなかそんな余
裕がないまま、歳月が流れた。ところが面白いことに、戦後オランダ本国で東インド体験
を持つ純血オランダ人や印欧混血者らが往時のパサルガンビルを懐かしみ、パサルマラム
の名で小規模なフェスティバルを開いて、インドネシアの物産や食品をここぞとばかり満
喫していたそうだ。

ジャカルタでのパサルガンビル再開は1968年になる。その年の6月5日から7月20
日まで、アリ・サディキン都知事がムルデカ広場と名の変わった昔の場所で昔の催しを再
開した。名称は英語でDjakarta Fairと名付けられた。

英語の名称は追々インドネシア語Pekan Raya Jakartaに変わっていくのだが、開催場所は
1991年まで毎年ムルデカ広場で行われた。1970年代のわたしの体験では、ムルデ
カ広場南部にはジャカルタフェア用の施設建物が常設されていて、開催期間のおよそ一カ
月間を除けばそこはひっそりして人間の姿はほとんどなく、警備員や駐車番がちらほらい
るだけの場所だった。しかし会場内の映画館やレストランの中には年中営業している店も
あったから、営業している場所をオフシーズンに訪れるのは、まるでゴーストタウン内の
店を訪れている雰囲気だったことを記憶している。

1992年から会場はクマヨラン空港の跡地に設けられたジャカルタインターナショナル
エクスポに移転したため、いきなり交通の便が悪化して来場者が激減した。わたしも新会
場を何度か訪れているが、初めて行ったときの印象では、規模が数倍に膨れ上がり、その
一方で来場者が大幅に減っていたために、人混みを免れ得る状況をむしろ喜んだものだ。
クマヨランでもカキリマ商人のブタウィ名物クラットゥロールは人気の食品で、最近では
数十人が同じブロックで店開きしているという話を聞いている。パサルガンビル時代にコ
ニングスプレインまで商売に来たワルンブンチッのカキリマ商人たちの子孫が最近のクマ
ヨランでの商売にやって来ているという話であり、パサルガンビルは一家代々相続される
商権になってしまったのだろう。


1892年にボゴール植物園長メルヒオル・トロイブMelchior Treubはコニングスプレイ
ンの公園構想を表明した。対角線状に交わる道の交差点にモニュメントを建て、その周辺
を噴水や花壇で飾り、音楽堂やダンスホールそして店舗などを設けて市民(プリブミは市
民の概念の外だった)の憩いの場にするというアイデアだったが、行政の取り上げるとこ
ろにはならなかった。
1905年にはガンビル駅近くにバタヴィアバイテンゾルフ競馬ソサエティBatavia 
Buitenzorg Wedloop Societeitが競馬場raceveldを設けた。

19世紀終わりごろにコニングスプレイン宮殿と道路をはさんで対面の場所に電信電話局
が移って来た。電信電話局は規模が拡大して何度か建て直され、場所もその都度移動した
ような印象がある。最終的に電信電話局建物はスカルノが独立記念塔を建てたとき解体さ
れて、ムルデカ広場南側の南ムルデカ通り12番地に移された。現在そこは国有会社テル
コムインドネシアのガンビル地区電話自動交換センターになっている。


1913年にデカパルクDecaparkの建設が開始されて、1915年にオープンした。ヤフ
ァホテルと道路をはさんで対面する位置だ。この公園はデ・カロネJules Francois de 
Calonneが興した民間会社Deca NVが経営する商業パークであり、バタヴィア市庁の認可を
得て運営された。デカパルクのデカDecaとはデ・カロネの名前から取られたものである。

6千平米の広さを構えた一種のレクリエーションパークであるこの公園内には音楽・演劇
・スポーツ・レストラン・カフェなどの施設が設けられた。映画館、オープンシアター、
楽隊演奏スタンド、テニスコート、サッカー場、ローラースケートサーキット、自転車サ
ーキット、子供の遊び場、噴水付きの池、集会所などがその内容だ。プリブミも障害を与
えられることなく利用できた。[ 続く ]