「コニングスプレイン(19)」(2020年06月10日)

サッカー場はバタヴィアのオランダ人サッカーチーム「ヘルクレス」Herculesのホームグ
ランドであり、各地の代表チームとの対戦が行われた。またボクシングやレスリングの競
技が世界各地のプレーヤーを招いて行われ、格闘技好きの観客を熱中させていた。

最初は劇場が作られたが、後に映画館に変えられた。この映画館はオランダ人エリート層
向けのもので、オランダ語字幕のハリウッド映画が上映された。公園内では毎週音楽隊が
演奏を行い、ヴィルヘルミナパルクで軍楽隊が月一回行う演奏会の向こうを張った。

デ・カロネはメステルコルネリスで生まれ、実業家時代にはバタヴィアとオランダをまた
にかけて手広いビジネスを行った。だが1920年代半ばに破産宣告を受けて滞納税金の
重圧にひしがれた時期もある。

デカパルクからデ・カロネが手を引いても、デカパルクは別の民間経営者がそのままの名
前で事業を引き継いだようだ。この公園は共和国独立後もスプラッマン公園Taman R.W. 
Supratmanと名前を変えただけで生き残り、スカルノ大統領の独立記念塔建設プロジェク
トによって姿を消した。

デ・カロネは1930年9月にその生涯を閉じた。47歳だったかれはそのとき、かれと
妻、そして弟と友人の四人でブバンBoebangに向かって車を走らせていた。そして、チカ
ンペッの8キロ手前で自動車事故にあい、プルワカルタの病院に運ばれたが、手当の甲斐
なく死去した。その車に乗っていた三人の男性はブバンで開かれるクリケットの試合にバ
タヴィアスポーツクラブBataviasche Sports Clubのメンバーとして出場するためだった
そうだ。


コニングスプレインに作られた公園はそれだけではない。
1920年代にヴェルテフレーデン鉄道駅寄りの場所にフロンベーフパルクFrombergpark
が作られた。フロンベーフパルクの南側には1905年に作られた競馬場に加えて、19
36年にバタヴィアスポーツクラブがサッカーコートやテニスコートを何面も作って運営
し、同じ時期に自転車レース場も設けられた。

コニングスプレインのもっと中央寄りの位置にはフォンデルパルク Vondelparkが作られ
た。オランダの著名文学者ヨース・ファン・デン・フォンデルJoost van den Vondelの名
前にちなんで命名されている。

フォンデルパルクの西側には1930年にヘルバッパルクHelbachparkが作られた。


1921年に国立博物館の北側にあるムセウム通りが突き当たって来るコニングスプレイ
ン西通りの広場側に、ホテルコニングスプレインHotel Koningspleinがオープンした。鉄
道会社SSが設けたこのホテルは木造で非恒久性の構造になっており、バタヴィア市庁が
恒久的建造物の建設を承認しなかったのかもしれない。

SSはヴェルテフレーデン駅までやって来て経済的な宿泊を求める階層のためにこのホテ
ルを設けたようだ。駅の周辺は公園やスポーツ施設で埋まっていたのだから、距離の離れ
たコニングスプレインの西の端に建てるしかなかったのだろう。

1936年に発足したバタヴィア警察本部は最初レイスウェイクに拠点を置いたが、後に
ホテルコニングスプレイン跡地に移転した。共和国独立後もプリブミ組織になったジャカ
ルタ警察がその本部を使い続け、スカルノの独立記念塔建設プロジェクトのためにスナヤ
ン東側角地に移転して現在に至っている。

ジャカルタ首都警察の歴史はこちらでどうぞ。
「ジャカルタ首都警察(全5回)」(2020年03月30日〜4月3日) 
http://indojoho.ciao.jp/2020/0330_1.htm
http://indojoho.ciao.jp/2020/0331_1.htm
http://indojoho.ciao.jp/2020/0401_1.htm
http://indojoho.ciao.jp/2020/0402_1.htm
http://indojoho.ciao.jp/2020/0403_1.htm
[ 続く ]