「コニングスプレイン(20)」(2020年06月11日)

1934年にバタヴィア市庁はコニングスプレインの中央に市庁舎を設けることを計画し
た。市庁舎と総督宮殿を結んで儀典道路を作り、その両側に政府機関を並べるというアイ
デアだ。1937年にはその計画が変更され、儀典道路両側に政府機関を並べる案は取り
下げられて、代わって鉄道駅を北に移動させて広場の東南部にスポーツスタジアムを作る
案が登場した。

1937年にトーマス・カーステンはコニングスプレインの新しい区画割りを提案した。
これは広場をいくつかのゾーンに分けて住民の都市生活のための諸機能を効率的且つ審美
的に分配するコンセプトに基づいたもので、広場の中心点は存在せず、種々の施設建物が
広場を満たす形になっていた。

しかし戦雲急を告げる時代の状況がカーステンの構想をバタヴィア市庁に着手させる暇を
与えなかった。カーステンの構想は永遠にその実現の機会が失われたのである。だが現実
に、そうでなくともコニングスプレインの姿は統制のないままに種々の施設建物で満たさ
れてはいたのだが。


1942年に日本軍はコニングスプレインの名称をイカダ広場Lapangan IKADAに変えた。
イカダとはジャカルタ運動競技同盟Ikatan Atletik Djakartaの短縮語で、コニングスプ
レインに運動競技施設が満ち溢れていたことからその名が選ばれたようだ。

十数個のサッカーコートやテニスコートがあり、毎週土日にはサッカートーナメントが行
われ、ホッケー場も二カ所あってインド系のジャカルタ市民がプレイしていた。競馬場で
馬を駆ることも依然として行われていたから、軍国調の空気の下で庶民が身体を鍛えたり
馬を扱うことは日本軍政にとってお誂え向きの行動であったために軍政部はその機能を尊
重したし、またこの広場を軍事教練の場にも使った。日本軍政が多数の住民を集めて大集
会を開くとき、イカダ広場は何度も使用されている。


インドネシア共和国独立宣言が1945年8月17日にスカルノの私邸で行われた。最初
それはイカダ広場で行われることになっていたのだが、日本軍が治安維持を名目にイカダ
広場を包囲したため急遽、場所が変更された。情報が徹底しなかったために多くのプリブ
ミ政界要人のスカルノ私邸到着が遅れ、歴史的な場面に立ち会えなかったことを悔やんだ
という話になっている。だが一般民衆はスカルノ私邸のある地区を人間の海で埋めた。

ところが、インドネシア共和国大統領は独立を宣言したにもかかわらず、いつまでも居座
っている日本軍政を追い払って行政センターである旧蘭印総督官邸に乗り込もうとしない。
他の諸政府機関も同様で、敗軍の日本人を追い出してそれに変わろうという気配を示さな
い。血気に燃える独立派青年層のイライラが募って行く。

独立を宣言したのだから、今やインドネシア共和国領土となったこの地をインドネシア民
族が思いのままに取り扱うのが本筋である。日本軍を武装解除し、インドネシアの主要施
設から追い払い、プリブミがそのすべてをわが手に握るのだ。抵抗する日本人は皆殺しだ。
これは革命なのだ。

青年層はスカルノ、ハッタ、その他の共和国政府重鎮たちを立ち上がらそうと策をめぐら
した。そのためには民衆を煽って政府中枢に国民の希望を知ろ示し、スカルノとハッタを
その気にさせて国民に革命行動を命じさせるのがよい。共和国政府は国民の希望を踏まえ
て動くのが筋道ではないか。

青年層は1945年9月19日にイカダ広場で政府中枢に民族の希望をデモンストレート
し、「国民よ、武器を取れ。」の言葉をスカルノに言わせようと画策した。これがインド
ネシア史に名高いイカダ広場大会議Rapat Raksasa Lapangan IKADAの背景だ。[ 続く ]