「コニングスプレイン(21)」(2020年06月12日)

その日未明に、ジャカルタ近郊のジャボデタベッやらもっと離れたカラワン・チアミス・
タシッマラヤ・チバルサ・スカブミ・バンドンなど西ジャワの各地に至るまで、町や村の
住民が続々とイカダ広場目指して動き始めた。各地の独立守護の使命に燃える集団は隊伍
を組み、あるいは個人個人が自分の意志で、ジャカルタ中心部を目指したのである。鉄道
はひとでいっぱいになり、あるいは乗り物が総動員され、また徒歩でジャカルタへ向かう
人間の波が街道に満ちた。

日本軍政はこのときも治安維持を名目にして、イカダ広場を重武装の部隊で包囲していた。
これは連合国に命じられているインドネシアの治安維持と現状凍結に対する違反行為にな
るのだから。

既に夕方になったイカダ広場東通りに3台の乗用車が到着した。時計は16時15分を指
している。スカルノ、ハッタ、そして上級大臣たちが車から降り、徒歩で広場に設けられ
た演説台に向かう。広場を埋め尽くしている群衆の間から、歓呼の声が上がる。Hidup 
Bung Karno! Hidup Bung Hatta! Merdeka!!

革命を目指す青年層は既に各地の同志にその意を通じさせていたものの、動員された群衆
の間から取り立てて闘志や戦意は匂って来ない。群衆は穏やかにスカルノの命令を待って
いるのだ。

スカルノは25万から30万人が集まったと言われているこの大集会で史上最短のスピー
チを行った。「みなさん、落ち着いて帰路に着きなさい。秩序と整然さを維持して、今す
ぐこの場を立ち去りなさい。各自は自分の持ち場に帰って、リーダーからの指示を待つの
です。今は解散するのです。皆さん、静粛に帰路に着きましょう。」
そして自分も演説台から降りると、徒歩で自動車に向かった。大勢の群衆がスカルノを取
り巻いて、一緒に徒歩でかれを送って行った。

インドネシアの独立を確定させるのは、戻って来たオランダ植民地主義者たちとの血みど
ろの戦いを通して実現させるしかないのだ。それ以前に日本軍と血で血を洗う闘争を行え
ば、オランダとの戦いに振り向けられなければならない民族の戦力が低下してしまう。そ
の本質を見抜いてあくまでも日本軍との戦いを避けようとしたスカルノの意志は、実に見
事と言うしかないだろう。


戦後処理のために進駐してきたAFNEI軍と、AFNEI軍から日本軍進攻前の状態に
戻った蘭領東インドを引き継いで植民地を維持しようとするNICAとの間の血みどろの
闘争がおよそ4年間継続し、その間にジャカルタは名称こそ維持されたものの旧オランダ
植民地体制に戻された。オランダ人はコニングスプレインの名前を復活させただろうが、
プリブミはかつてのガンビル広場の名前をイカダ広場に変えて使い続けた。

1949年のインドネシア共和国主権承認を経て、イカダ広場はプリブミの手に戻された。
だがイカダ広場のスポーツ施設にはまだまだオランダ人を含むヨーロッパ人の姿が見られ
た。競馬場は依然として残されていたから、そこにイカダスタジアムが建設されるまで、
白人の乗馬姿は普通のものだったそうだ。

1951年、共和国政府はPON(国民体育週間)の催しを開始した。これは日本の国民
体育大会のようなもので、全国各州の代表選手がジャカルタに集まって競技した。その第
2回大会が1951年に開かれるとき、国鉄ガンビル駅の南側で広場の東南部の区画にス
タジアムが建設され、イカダスタジアムStadion IKADAと呼ばれた。このスタジアム建設
は93日間で完了したそうだ。1963年にアジア大会のためスナヤンにスポーツコンプ
レックスができるまで、イカダスタジアムはジャカルタの運動競技のメッカになっていた。
[ 続く ]