「ジャムゥ(4)」(2020年06月11日)

< ジャムゥテリア >
二十世紀の工業化時代に西洋文化方式にもとづくファーマシーの世界でジャムゥの研究と
開発が行われており、その結果フィトファーマシーfitofarmakaと呼ばれる新種新形態の
ものが生まれた。

元々ジャムゥは親が子供に身体壮健を図って飲ませ、妻が夫に健康・フレッシュ・雄々し
さを保つよう願って飲ませ、妻が自分自身の爽快さ・美しさ・家庭内での性的幸福を目的
にして飲むものだった。ジャムゥというのは最初、各家庭が我が家のジャムゥを作って摂
取するものだったのである。後になってジャムゥゲンドンJamu Gendongの売り子やワルン
ジャムゥWarung Jamu、そしてドゥクンの治療の一部として使われるような商業化の道を
たどった。それらのジャムゥ商業化の諸ポイントは現代インドネシアでいまだに続けられ
ている。二十世紀初には特徴的なフランチャイズ制のジャムゥテリアJamuteriaという流
通方式が開発された。これはワルンでジャムゥを淹れ、客がその場で飲むという方式で、
コーヒーのカフェテリアに倣ったものだ。ジャムゥテリアを開発したのはジャゴブランド
ジャムゥDjamoe Tjap Djagoの一族で、中部ジャワ州ソロのシゴサレンSingosarenでスタ
ートした。今や十数万のジャムゥテリアフランチャイジーが道端ワルンや仮設スタンドか
ら モール内のデラックス売場に至るまで、大都市のみならず地方部村落まで全国に満ち
満ちている。


二十世紀初にウォノギリ村でTKスプラナという名のひとりの青年が素朴な新製品を創造
した。現代的なセンスから見れば素朴なものだが、当時の歴史的価値から言うなら革命的
なものだったと言えるだろう。TKスプラナはジャムゥを粉末状に生産することを始めた
のである。そのおかげで、ジャムゥの大量生産が可能になり、ジャムゥはどこへでも容易
に持って行ける実用性の高いものになった。ジャムゥの工業化時代はこのようにして始ま
った。

ジャムゥジャゴDJAMOE DJAGOというブランド名を付けた革命的な粉末ジャムゥでTKスプ
ラナは1918年にワルン事業を開始する。それを追いかけるようにして、さまざまな企
業が粉末ジャムゥを生産し始め、インドネシアで初の、いや世界最初のジャムゥ産業共同
体が作られて行った。

現在インドネシアには、インフォーマル家内工業から大規模工場を持つフォーマル企業に
至る6百の生産者がおり、数千人の従業員を擁して数千億ルピア規模の事業を行っている。
大規模生産者としてはNyonya Meneer, Air Mancur, Sido Muncul, Simana, Leo, Borobudur, 
Deltomex, Berial, Akar-Sari, Mustika Ratuなどがあって、最新鋭の生産機器を備え、フ
ァーマシー工場とそん色のない製造メソッドを用いて製品を世に送り出している。60年
代に誕生したジャムゥジャゴの子会社PT Daya Gayaはファーマシー工場にとって必須条件
であるCPOBを満たしており、1997年にその資格が公式認定されている。西洋世界
の自然への回帰運動に沿って人気が高まっている健康食品を、ジャムゥ産業界も生産して
いる。

非石油ガス産品のひとつとしてジャムゥは、アセアン・オランダ・台湾・サウジアラビア
などの諸国向け輸出商品となる大きい潜在性を持っている。中でも、インドネシア国民海
外出稼ぎ者や移住者の多い国に対する可能性は大きい。中国とインドの伝統医薬が世界中
にその名を顕著にしているのは、かれらが世界のすみずみにまで移住して暮らしているこ
とがその現象を生み出した大きい要素のひとつであるからだ。かれらはアフリカや南米の
田舎にまで移り住んでいるのだ。海外移住者というのは、その民族の文化産品を異なる文
化社会に紹介することにおけるスーパーハイウェイなのである。どのような輸入制限の障
壁をも、それは自由に乗り越えてしまうのだから。[ 続く ]