「コニングスプレイン(22)」(2020年06月15日)

インドネシア共和国主権承認に伴って、イカダ広場はムルデカ広場Medan Merdekaと呼ば
れるようになっていく。

1954年、スカルノは独立国家のための記念碑建設構想をまとめ始めた。建設場所はも
ちろんインドネシア最大の都市公園、1キロ四方のムルデカ広場の中央だ。そこを独立イ
ンドネシアのシンボルとするために、ムルデカ広場を埋めているデカパルクなどの公園と
諸施設、ジャカルタ市警本部、電信電話局、DKI情報局、プレスクラブ、郵便局分局、
IKADAスタジアム、屋内体育館、サッカーコート、テニスコートなどを一掃しなけれ
ばならない。ムルデカ広場は公園にし、大統領宮殿表の儀典プラザの役割を持たせるので
ある。

儀典プラザの中央に、共和国独立を象徴する巨大なモニュメントを屹立させるのだ。ジャ
カルタのどの建物よりも高く、またチャンデイボロブドゥルよりも高いもの、パリのエッ
フェル塔よりも巨大なものを。

1956年にデザインが一般公募されたが、スカルノの気に入るものはなかった。196
0年に公募が繰り返されたものの、スカルノの首を縦に振らせるものはない。結局、建築
工学技士であるスカルノが描いたスケッチを精鋭建築家に手直しさせる方法で、最終的に
建築家スダルソノの作品が最優秀賞を得た。

それは高さ132メートルの塔の頂上に高さ14メートル、径5メートル、重さ14.5
トンの銅製の炎を戴くシンプルなデザインのものだった。炎のオブジェは黄金35キログ
ラムでメッキされた。


1940年代後半のNICAとの独立闘争期に、共和国政府は身の危険を感じてヨグヤカ
ルタに移っていた。ジャカルタがNICAに奪われたのだから、ヨグヤを首都にせざるを
得ない。共和国主権承認のあと、政府はヨグヤからジャカルタに戻って来た。

高官から一般公務員に至るたくさんの政府関係者がジャカルタに戻り、住居が必要になっ
た。加えて地方部で反乱や不穏な情勢が続いたことから、地方部住民が治安のよいジャカ
ルタへ移住する傾向が高まり、ジャカルタに人間があふれるようになる。コタ地区の運河
が埋め立てられて住居が建てられたり、更にはムルデカ広場にまで不法居住者が増加した。
ジャカルタの人口推移を見てみると、1948年180万人、1962年310万人、1
970年420万人となっている。

独立記念塔(最初はTugu Nasional、後にMonumen Nasional 通称モナスMONASと呼ばれる)
の建設工事を前にして、アリ・サディキン都知事がムルデカ広場のすべての施設と不法居
住者を鋼鉄の腕で一掃した。もちろん鉄道駅と線路だけは残して。独立記念塔の杭打ち工
事は1961年8月17日に開始され、1964年8月16日に竣工式典が行われた。一
般公開は1975年7月12日から開始された。

スカルノのムルデカ広場整備構想はメルヒオル・トロイブのコンセプトと同じもので、1
キロ四方の四角に対角線を引き、中央の交点にモニュメントを建てる計画はそっくり同じ
だ。トロイブのコンセプトでは小さいモニュメントだったが、スカルノはそれを一変させ
た。確かに歴史の過去において、ムルデカ広場に垂直方向に長い建造物はいまだかつて存
在したことがなかったのだ。

X字形の広場内道路はJl Silang Monasと呼ばれた。広場内はその道路によって三角形を
なす東西南北の四区画に分けられた。各区画の公園化が開始される。ただし、南区画だけ
は完全な公園でなく、ジャカルタフェアのための建築物や商業施設、オフィスなどが建て
られた。ジャカルタフェアはその場所で1968年から1992年まで毎年開催された。
[ 続く ]