「コニングスプレイン(終)」(2020年06月16日)

また南西角はアミューズメントパークTaman Ria Jakartaが設けられて、その中には遊戯
施設はもちろんのこと、展示会場やレストラン、またナイトクラブも置かれた。

他の三区画の公園化は1973年1月に植樹からスタートした。最初に西区画が完成して、
1974年6月10日に1.9万平米のプラザと池や噴水、花壇脇の緑陰にベンチという
公園が市民に開放された。追々、他の区画も公園化が完了して市民に開放されて行った。

残された南区画も、1992年にジャカルタフェアがクマヨラン会場に移され、一部の建
造物と駐車場以外は撤去されて公園になる。残されたIRTI(Ikatan Restoran dan 
Taman Indonesia)駐車場だけが、一般来園者が利用できる駐車場だ。

現在このモナス公園Taman Monasの北区画は大統領宮殿に直接対面する場所であるため、
もっとも格調高い雰囲気を醸し出している。イタリア人彫刻家の制作した馬上のディポヌ
ゴロDiponegoro像、近代インドネシア文学を象徴する奇才の詩人ハイリル・アンワルの胸
像などが置かれ、モナスの塔に入って行く地下道の入口もこのエリアにある。

西側区画は音楽に合わせて踊る噴水が作られ、豊かな緑陰の中に憩いを求めるひとびとに
愛好される場所になっている。このエリアには、共和国の儀典道路にその名を残した植民
地時代末期のプリブミ政治家タムリンMohammad Husni Thamrinの胸像が置かれている。

南側区画は、イカダ広場大会議の会場となったことを記念する碑が建てられ、全国33州
をそれぞれ代表する樹が植えられ、IRTI駐車場があり、土産物店や飲食店が設けられ
ている。

東側区画は国鉄ガンビル駅を擁するエリアであり、繁華な交通の流れを間近にひかえて喧
噪の中に一幅の安らぎをもたらす場所になっている。かつてディポヌゴロ通りのスロパテ
ィ公園前に置かれていた日本政府寄贈のカルティニ像が、ディポヌゴロ像に場を譲ってこ
ちらに移されている。


スカルノ大統領の時代、国家儀典プラザの役割を与えられたムルデカ広場では、毎年行わ
れる独立記念式典でスカルノが行う大統領スピーチを聞くために無数の大衆が集まって来
てスカルノの熱弁に一喜一憂し、湧き立った。

スカルノをはじめとする建国の父たちが作った共和国の表看板であるジャカルタのグラン
ドデザインは、いまだにその基本構造をなしていると言えるに違いあるまい。巨大なイス
ティクラルモスクの丸屋根と稠密な都市の中央に残された広大なスペースの真ん中で天に
向かってそびえ立っている独立記念塔が、上空から鳥瞰したときの目立つランドマークと
なったはずだ。

ジャカルタを空路出入りするひとびとが航空機内から地上を眺めた時、ジャカルタという
街の印象をそこに凝縮して体験することになる可能性は想像に余りある。建国の父たちの
時代に空路ジャカルタを出入りするひとびとはクマヨラン空港を、そして後にはハリムプ
ルダナクスマ空港を通っていた。かれらが設けたランドマークは十分にその効果を発揮し
たにちがいあるまい。スカルノハッタ空港を出入りしている現在のわれわれには、その天
上的な体験を持てないのが残念なことである。[ 完 ]