「バタヴィア紀行(3)」(2020年06月19日)

われわれはデパイプでおよそ一時間楽しんでから、散策しがてら兵舎へ戻るためにそこを
辞した。外に出ると、月光が煌々とあたり一面を照らしている。白塗りの美しいヴィラが
光の中に浮き上がり、熱帯のエキゾチックな光景がわれわれを幻想の世界へいざなってく
れる。その幽玄な明るさに、わたしは雪に覆われたヨーロッパの夜とよく似たものを感じ
た。いや、これは決してホームシックではない。

われわれは月光を浴びながら、まるでおとぎ話の世界に入ったかのような雰囲気を味わい
つつ、歩を進めた。ひともサドも稀にしか出会わず、静かで寂しく、そして落ち着いてい
る。アムステルダムやネイメーヘンの夜からは想像もできない穏やかさだ。

どこをどう歩いたのかよく覚えていないが、ヘルトフスパルクHertogsparkの軍司令官宮殿
を目にしたことは覚えている。病院通りHospitaalweg(今のJl Dr. Abdulrachman Saleh)
まで来たら、プリブミの若者の一団がギターとマンドリンを鳴らしてムラユのラブソング
を歌いながら歩いているのに出くわした。わたしはこのバタヴィアの美しい夜に魅了され
て、感極まってしまった。

かれらはセンスの良い衣服を着ており、おまけに上手にオランダ語を話す。ネーデルラン
ド号の水夫長、アブドゥラのブツ切れブロークンオランダ語でなく、まるでネイティブの
ようなオランダ語なのだ。そのうちかれらは大きな建物の表門から中へ入って行った。そ
の門の上に掲げられてあった表示にはSchool ter Opleiding van Inlandsche Artsenと書
かれていた。おお、かれらはヴァーテルロー広場でサッカーに興じていた若者たちと同じ、
医学生だったのだ。わたしはかれらと会話したい衝動に駆られたが、夜のこととてその欲
求を抑えた。われわれがその門の前を通る時、そこでタバコを吸っていた若者たちにわた
しは声をかけた。「ボンスワール、ヒーレン!」若者たちはかしこまった声であいさつを
返してきた。

われわれは更に進んで軍大病院の前を通過し、兵舎へと向かった。夜8時ちょうどに砲声
が鳴り、ラッパが吹かれた。われわれは夜8時半の呼集に出たあと、兵舎のベッドで明日
の予定に思いをめぐらしつつ眠りに落ちた。


わたしは生粋のアムステルダムっ子だ。ヨルダアン地区の貧しい家庭に生まれた。父親は
飲んだくれで、母親が賃稼ぎをして何とか暮らしていた。父親が母親を殴ったとき、もう
大きくなっている長兄が父親を実力でやっつけたことを覚えている。わたしが育ったのは
そんな家庭だ。

わたしは四人兄弟の末っ子で、悪ガキでなかったからたいていのひとに可愛がられた。末
っ子は悪ガキの兄たちがどんな待遇を受けるかを見て育っているから要領が良くなるのが
普通だが、わたしは自分があまり表裏を持たない人間であることを知っている。

そのころ、金持ちの息子が兵役逃れのために代役を金で買うことが行われていた。長兄は
代役に買われて、第七歩兵連隊の兵士になった。まだ小さかったわたしはときどき兵舎へ
遊びに行き、軍隊というものを身近に感じるようになった。そこには、幼い心に憧れを与
えるものが散りばめられていたにちがいない。長兄が退役して、けっこう大きな金を母へ
の土産にして家に帰って来たとき、わたしは自分の将来の道を半ば以上、決意していたと
言えるだろう。1892年の夏、18歳のわたしはアムステルダム第七連隊の兵士に志願
して、採用された。

数年を経て筋金入りの兵士に鍛えられたわたしは、まだ見ぬ世界を体験したいという冒険
の夢に邁進することにした。冒険家は小学生のころから夢見ていたものだったのだから。
手っ取り早いのは、東インド植民地軍に志願することだ。わたしはネイメーヘンに移った。
[ 続く ]