「バタヴィア紀行(8)」(2020年06月26日)

水門橋から乗って来たのは華人がひとりだけだった。車掌頭は「今日は日曜日だから、あ
んたがたは運がいい。」と物語る。自転車にしろ四輪車にしろ、自分の交通機関を持って
いない勤め人たちはだいたいトラムを利用するから、トラムはいつも満員状態で走ってい
る。勤めはたいてい夕方5時で終わるので、そのあとの帰宅ラッシュはすさまじい。土曜
日だけは半ドンで、正午12時に終わる。そのあとはみんな、月曜の朝までのんびり三昧
だそうだ。涼しいバイテンゾルフへ汽車で遊びに行く者が多いから、週末は混雑が鉄道の
方に移る。

トラムがまた動き出した。左の方に古い要塞が見える。そのシタデルCitadelは首都防衛
軍の兵器庫になっている。そこを取り巻くヴィルヘルミナパルクWilhermina Parkは、喧
噪渦巻く大都会の真っただ中にあるとは思えないほど穏やかで平和な場所だ。子供を連れ
てきて遊ばせたり、恋に酔った男女がふたりだけで散歩したりするのに最適な場所だと言
える。シタデルの古びた壁を周遊している小道は家族ピクニックに向いている。要塞が公
園の周囲の情景によくマッチしていて心地よいし、おまけに要塞の警備兵が周辺一帯を監
視しているから、治安の面でも昼夜の区別なしに安心できる。

公園の入り口に近いところにアチェ記念碑が建てられている。たいへんな辛苦を乗り越え
て、スマトラ島の北端部にオランダ民族が威勢を轟かせるのに成功したのを記念して建て
られたものだ。


トラムの右側には美しいデザインの平屋棟に囲まれた背の高いビルが建っている。それが
KPM本社だ。そこには貨物や旅客の海運事業を行っているロッテルダムロイド、ロッテ
ルダム国際クレジット&トレード協会、Jダンデルス&Co.輸送代理店などの諸会社の
オフィスが入っている。JダンデルスはStoomvaartmaatschappij、Koninklijk Paketvaart 
Maatschappij、Jave-Cina-Japan Lijn、Nippon Yusen Kaisha、Java-Bengalen lijn など
の海運会社代理店を務め、また外国為替会社Nederlandsche-Indische Escompto Maatschap-
pijの代理店にもなっている。

このオフィスコンプレックスは、汚く・暑く・不健康なバタヴィア下町地区で行われてい
た健康さを無視したビジネス活動を反省して、健康で衛生的な暮らしの中でのビジネス活
動に必要とされるあらゆる条件を満たして作られたものだ。
昔、タンジュンプリオッ港ができる前、貨物船は沖合で投錨して荷をはしけに移し、はし
けがチリウン川河口からバタヴィア城市内のカリブサールまで入って来て、川岸で荷役し
た。港湾施設と荷役設備のモダン化は、海運会社が港から遠く離れたヴェルテフレーデン
にオフィスを構えることを可能にしたのである。


トラムはノードウェイクNoordwijkで鉄道線路と交差し、レイスウェイクに入って行く。
ノードウェイクにはバタヴィア⇔バイテンゾルフ間を走っている鉄道の駅があるのだ。レ
イスウェイクのトラム線路脇を、茶色の制服を着て縄で縛りあわされている多数のプリブ
ミが歩いているのが目に入った。制服の腕に白い筋の入ったリーダー格の男はちょっと離
れて歩いている。「ああ、あれは懲役囚だ。ここではケッティンヨンヘンKettingjongen
と呼ばれている。」と車掌頭は説明してくれた。グロドッGlodok刑務所から囚人がトラム
線路脇の草取りのために送り出されてくるのだそうだ。リーダー格の男も囚人のひとりで
あり、ムラユ語でマンドルmandorと呼ばれている。

かれらに逃亡の機会はいくらでもある。しかし逃亡しようとする者はほとんどいない。か
れらはオランダの制度下に運営されている犯罪囚の立場を甘受するほうが、逃亡してお尋
ね者になった上に、更に生きる糧を自ら手に入れるための努力まで払う立場よりましだと
思っているようだ。
「アチェで従軍すれば、かれらのような人間をいくらでも目にすることができる。糧食や
ら武器弾薬を取って来させたり、あるいは負傷兵を担架に乗せて後送するような役割をか
れらは黙々と実践してくれる。かれらは戦場で、とても有用で価値ある存在なのだ。」車
掌頭はそうコメントした。[ 続く ]