「バタヴィア紀行(14)」(2020年07月02日)

VOC時代のバタヴィア城市が市政評議会College van Schepenenによって統治されてい
た時代に、統治機関がこの建物で執務していたことからバタヴィア市庁舎と呼ばれている。

既にバタヴィア市庁舎がヴェルテフレーデンに移っている現在では、市民管理庁Binnen-
landsch Bestuurとして旧市街の行政機構と警察がそこを使っている。この建物の正面広
場には死刑のための処刑台が常設されていて、時おり凶悪犯罪者の処刑が公開されている。
建物の地下にはVOC時代以来の牢獄がある。

広場の東側にある美しい円柱で飾られた建物は高等裁判所Raad van Justitieだ。広場の
北東角には鉄道会社NIS(Nederlandsch Indische Spoorweg Maatschappij)のバタヴィ
ア駅がこじんまりと立っている。

われわれはトラム線路沿いにビンネンニューポートストラートBinnennieuwpoortstraat
(今のJl Pintu Besar Selatan)を南下した。日曜日のこの道路には人っ子一人いない。
われわれはここでも、ヨーロッパ人所有の古く汚く、壊れかかっているような建物群を目
にした。「汚い場所だ。」というティマースマのコメントに、われわれはみんな賛同した。

左側に政府所有の郵便局があったが、この建物もひどいありさまだ。右側は東インドエス
コント銀行Nederlandsch Indische Escompto Maatschappijだ。大型資本のしっかりした
銀行だが、こんな場所まで金を預けにヴェルテフレーデンからやってくる人間があるとは
信じられない。この銀行は別の場所に店を移すべきだろう。

この通りはまったくひどい場所で、バタヴィアにこんなスラム地区があるなどとは信じが
たい話だが、もっと異常なことは、この通りの腐ったような建物群に何トンもの黄金が保
管されているのである。


この通りを外れた辺りに華人のさまざまな作業場があって、家具や家庭用器具を生産して
いる。日曜日だというのに、やせた身体の作業者は上半身裸で骨を折っている。かれらは
辮髪を巻き上げ、愚者のような顔つきで、一心に物作りに精を出している姿を見せている。

われわれはどんどん南下してモーレンフリートの端までやってきた。遠くにグロドッ橋が
見える。やってくるとき通ったトラムの線路を逆行するのはつまらないから、逆戻りする
ことにした。再度、華人のさまざまな作業場の前を通過する。作業場は道路より低くなっ
ていて、作っている製品がよく見える。

ビンネンニューポートストラートをまた通る気はないから、南バタヴィア駅の手前で右に
曲がった。南バタヴィア駅はNISとは別の鉄道会社SS(Staatsspoorwegen)が所有して
いる。トラムはまた別の会社が運行させていて、はなはだややこしい。


南バタヴィア駅の南側を東西に走っている道路をしばらく行くと、道路は右に分岐してヤ
カトラヴェフJacatrawegに入る。その角地に1693年に建てられたポルトガル教会
Gereja Portugisが建っている。プリブミがGereja Kota Lamaとも呼んでいるもので、オ
ランダの田舎町の質素な教会に似ている。ミサが終わったばかりらしく、扉が開いている
ので、われわれは立ち寄ってみることにした。肌が褐色のヨーロッパ人がわれわれを迎え、
中を案内してくれると言う。

オランダ人がジャワ島にやってくる前、ジャワには既にポルトガル人がいた。かれらはポ
ルトガル女性を連れて来ず、奴隷を買い、女奴隷を伴侶にした。その子孫はいまだにジャ
ワ島にいる。印欧混血の男の子や若者、時に男性一般を指すこともあるシニョsinyoとい
う言葉はポルトガル語のsignorに由来している。東インドの印欧混血ファミリーの間でポ
ルトガル系の姓は決して稀なものでない。その傾向は特にマルク地方、中でもアンボンで
きわめて顕著であり、マルクではポルトガル系混血ファミリーが既に十二分に土着化して
いて、原住民からヨーロッパ人と見られていないほどの溶け込み方になっている。最初か
れらはオランダの侵略に手を携えて抵抗したが、最終的にオランダの支配下に落ちた。

東南アジアで当初、卑俗化したポルトガル語が共通語の役割を担ったのは、ポルトガルが
各地に領有した町でのポルトガル人の地元社会への溶け込み方と無縁でない。そんな町の
住民が奴隷に買われて別の町に移住し、その言葉が四方八方へと広がっていった。
[ 続く ]