「バタヴィア紀行(15)」(2020年07月03日)

バタヴィアでは、キリスト教徒になるのを条件にして主人が奴隷を自由人に解放すること
が行われた。現代まで残っているポルトガル系コミューンはタンジュンプリオッの東側で
海からすこし南下したところにある。

ポルトガル系コミューンでは普通、混血子孫たちは地元プリブミ社会と自分たちの間に人
種格差観念を抱かず、また王制貴族制社会支配の経験も持たなかったために、周辺プリブ
ミ社会と容易に溶け合って存続し続けた。

とは言っても、ファミリーによっては、祖先が何だった、先祖にだれがいた、などという
ことを根拠にしてその子孫としての尊大さをまき散らす者が皆無というわけでもない。そ
の種の愚者はいつの世にも、どこの土地にもいるものなのだ。ジャワ島で見つかるその種
の人間はたいてい、アンボン出身のポルトガル系だそうだ。


ポルトガル教会の中はたいへんアンティークな雰囲気だ。彫刻のなされた説教台と背もた
れの頂点が銀色に塗られた高椅子は美しい。月々の費用はポルトガル政府から出ているが、
不足分は密輸品の売買で補っていると案内人は物語った。教会の壁には1695年10月
23日開設と記され、オルガンは18世紀末の神父が寄贈したものだ。たくさんの椅子は
ファン・デル・パッラvan der ParraVOC総督の寄付だそうだ。

教会の周囲は墓だらけだ。教会の庭に埋葬されるのは政財界有力者であり、1725年に
葬られたスワーデクローンZwaardecroonVOC総督もそこに混じっている。


教会を出てヤカトラヴェフを下ると、きれいに保たれている白い塀があり、中央にセメン
ト造りのモニュメントが建っている。モニュメントの上には槍の穂先が突き出ていて、そ
の穂先にドクロが突き刺さっていた。これが1722年にバタヴィアのVOCに対する謀
反の首謀者として処刑されたピーテル・エルベルフェルドPieter Erberveldの頭蓋骨だっ
た。

話では、ピーテルが諸方面の不平分子を集めてバタヴィアのVOCやバンテンあるいはソ
ロ・ヨグヤのスルタン国を滅ぼし、全ジャワ島の支配者になろうと計画していることを知
ったプリブミ娘が、恋人のVOC士官にその話を教えたためにヤカトラヴェフのこの家で
捕物劇が行われ、ピーテルとプリブミの謀反計画者らが大勢逮捕された。

われわれがそのモニュメントに書かれた碑文を読んでいるとアブドゥラが、遅くならない
よう、そろそろ兵舎に戻った方がよい、と忠告してくれた。われわれはヤカトラヴェフを
下ってグヌンサハリ通りに入り、そのままスネンまで行くことにした。


グヌンサハリ通りには道路の西側にまっすぐ北上している狭い運河があり、通りは閑散と
していて、めったに通行者はいない。ヴェルテフレーデンに近づいてくると、道路の東側
には広い庭に囲まれた白塗りの邸宅の並びが出現した。路上の往来はまばらで、雰囲気は
穏やかだ。

スネン市場のかなり手前で右に折れ、橋を渡った。ヨーロッパ人刑務所があり、軍事裁判
所がある。左の方にデパイプがあって、昨夜月光の下を通った広場があり、盛装したひと
びとで賑わっているコンコルディア社交場が見えた。美しい大理石のフロアの上でひとび
とはダンスに興じているのだろう。

ほどなく兵舎に着いたので、アブドゥラがサド料金の精算を手伝ってくれた。一時間60
センだそうだ。われわれはひとり1フルデン払うだけで事足りた。夕方のヴァーテルロー
広場での演奏会でまた会おうとアブドゥラと約束してから、われわれは兵舎に戻って昼食
を摂り、夕方まで昼寝した。


ヴァーテルロー広場では、数人の男性が乗馬の腕前を披露している姿が見え、中にヨーロ
ッパ婦人を乗せた馬車が何台もあちこちでゆっくりと広場の中を移動している。

草地の上では、軍楽隊が各自の譜面台を前にして、大きな円を描いて立っている。その円
の周りを白服の将校から下士官や兵士たち、熱帯用の軍服を着用した水兵、そしてまたプ
リブミや華人、ほっそりした体つきをしている美人のノニたちも入り混じって取り巻いて
いる。[ 続く ]