「偶然性と神の意志」(2020年07月06日)

ライター: 語義オブザーバー、神学士、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2011年7月29日付けコンパス紙 "Kebetulan"

「demi kebenaran」とガーガーわめく決死隊の叫びをしばしば耳にすることがあるものの、
「demi kebetulan」と叫んで闘争意欲を噴出させる者を目にしたことはまずあるまい。

kebenearanは奉持され護持される対象と考えられている一方、kebetulanはそれ自身が自
発的に起こって来るものごとであるため、それを弁護したり反抗したり否定したりするこ
とができず、単にそれを受け入れ、背に担う以外に対処のしようがない。

思いがけないできごとがkebetulanと言われるのは、決してkebetulanなことではないのだ。
最高位にある者の意向と絶対支配者の意欲が生み出す大自然の望みに沿った生存意義につ
いての哲学をkebetulanは反映しているのである。その神聖なる存在が定めることがbetul
であり、benarなのである。実存しているものや既に起こってしまったことに対する拒否
はネガティブな不服従姿勢であり、絶対全能なる者の決定に対する反抗と変わらない。


神々が何かを望むとき、その内容が人間の望みと異なっており、人間の思考の及ぶ範囲を
超えており、想像もできず、超常的で理解不能であったとしても、そのことこそがbetul
なのである。人間の思考と行為のあらゆる努力は無効で、失敗で、敗北であるにとどまら
ず、salahでもあるのだ。人間は自分の思考を、行為を、自分自身を最高神の意向に合わ
せて行かなければならない。それがkebetulanということの意味なのである。

もっとスペシフィックな形においては、kebetulanはuntungとsialという対義語に分裂す
る。「Untung saya selamat.」「Sial dia mati.」は自分自身もしくは他人の振舞いや不
注意の結果なのでなく、神が望んだことなのである。それがゆえに、一部のひとは学士試
験に合格するためにドゥクンを訪れて長い時間をかけ、あれやこれやの禁忌やなされるべ
きことを学んでそれに従うことを苦労して行っている。自分の頭脳を研鑽する技術を学び、
能力を深めようともしないで。言うまでもなく、毎回総選挙前がパラノーマルたちの大収
穫期であることを物語るストーリーにも、われわれは事欠かない。

すべてがkebetulanであるという世界観はヌサンタラ住民の多くに、人生のありとあらゆ
る困難と苦さに立ち向かって堪えしのび、忍耐と辛抱、従順と自己委託をものともしない
力を与えてきた。苦難と貧困は、kebetulan sedang susahに比べて何でもないことなのだ。

一切が神の定めしものという論議に従って宗教者は、kebetulanを信奉する者を無神論者
として非難する。kebetulan(偶然性)などというものはないのだと言って、kebetulan信
奉者の理由付けに誤った判断を下している。ところが自分の生を決定する一要因としての
kebetulanを受け入れて服従している人間のほうが、そこに神の手が及んでいることを深
く感じているのである。自立自尊の固着を信ずる人間ほど、kebetulan思想から離れ去ろ
うと望み、それを捨てることができるのである。


kebetulanとは人間の企図から離れて発生するkebenaranなのだ。いや、それ以上に、
kebetulanとは全能の支配者が自ら定めるkebenaranなのである。kebetulanとは、起こる
べくして現れて来る現実なのだ。kebetulan以上にbenarなものは存在しない。なぜなら、
依然として誤謬を内包している人間的なkebenaranとは異なり、kebetulanは人間の対抗で
きない神性のkebenaranなのだから。何千年にもわたって世界中の哲学者がkebenaranとは
何かを問い続けて来た。ヌサンタラの宗教者・文学者・文司は即答しただろう。
kebenaranとはkebetulanのことなのである、と。