「バタヴィア紀行(20)」(2020年07月08日)

エブロは更に前進して、コニングスプレイン宮殿の前で止まった。正門から近い場所に待
合室があり、その前の広い道が宮殿テラスの階段へと続いている。ジャワ人兵士が警備詰
所の表に立っている。ここは東インド総督の宿舎兼執務所だが、総督はたいていバイテン
ゾルフ宮殿にいて、あまりここにはいない。せいぜい月に一回やってくるだけであり、加
えて何かの行事があるときに数日ここに滞在する。総督は東インド植民地軍とオランダ海
軍南遣艦隊の最高司令官である。そして東インドにおけるオランダ女王の代理人であり、
その立場はオランダ本国政府植民地相よりも上位にある。本国政府のビューロクラシーか
らの独立性はこうすることで保たれるのだろう。


われわれはほぼ半時間でコニングスプレインを一周した。エブロの料金はひとり15セン
で足りた。われわれがハルモニの前まで戻った時、時間は8時15分前だった。8時半に
は兵舎に戻っていなければならないのだ。

ハルモニ前の道路は歩道脇がトアンとニョニャを待っている馬車や四輪自動車で埋め尽く
されている。プリブミのお抱え御者や助手の恰好は珍妙だ。白色ズボンの上に足首までの
濃赤色の長衣を着て、シルクハットをかぶっており、そして例によって裸足だ。エイヘン
ヘルプの店の前に客待ちのサドとエブロがいた。

演奏会が行われているハルモニの庭園入り口は混雑していない。騎馬隊兵士とプリブミ伴
侶のカップルが数組いて、他に印欧混血青年のグループがいるだけだ。白の制服を着た警
官が剣と帽子なしで警棒だけを持ち、5人のオパスを指揮して入り口の警備に当たってい
る。

庭園の中では、煌々たる電灯の明かりの下で大勢の聴衆が音楽を鑑賞している。子供たち
は入り口と会場を結ぶ小道で走り回っている。ヨーロッパ人男女はヨーロッパの衣装を着、
将校は白の服装で、そんなかれらの間をジャワ人が頭に鉢巻をし全身白づくめで忙しそう
に立ち働いている。テーブルに呼ばれては飲み物の注文を受け、注文品をテーブルに届け
るのがかれらの仕事だ。


「さあ、帰る時間だ。」突然ヘンドリックが言った。警備詰所でクントガンが8回打たれ、
夜の風に乗ってあちらこちらからラッパの音が聞こえて来た。

「プクルブムpukul bumだ。」と言うヘンドリックの言葉の端から、軍艦やシタデルの鳴
らす大砲の音がバタヴィアの夜の空気を震わせた。プリブミは夜8時の大砲時間のことを
プクルブムと言っている。街中にいるひとびとが一斉にポケットから時計を出して、自分
の時計がこの時報に合っているかどうかを確かめている。午前5時にもこの大砲は鳴らさ
れている。

昔から続けられてきたこの弾薬消費の習慣がたいへんな無駄であることに気付いた者が、
あるときそれをやめさせてしまった。そして正確な時報は電話で確認できるようになった。
伝統と呼ばれているものの中に倹約できる無駄がいかにたくさん転がっているかを示す一
例だろう。


われわれはエブロを呼んで、四人で兵舎に向かった。水門橋を越え、ヴァーテルロー広場
を通り、スネン方面に向かう。およそ15分で兵舎入り口にたどり着けた。見ると、酔っ
払い兵士がひとりいて、かれを連行しようとしている憲兵に怒りをたぎらせて抵抗してい
るではないか。かれはネイメーヘン以来の札付きの酔っ払い兵で、そのために何度も罰を
受けているというのに改心の気配はさらさらない。東インドまで来て、なじみの牢獄を作
ろうとでも言うのだろうか?

翌日かれの素行歴を見た将校は、憲兵隊留置場に14日間留め置き、その間水と飯しか与
えない、という厳しい処罰をかれに与えた。この兵士は東インド到着後三カ月ほどで素行
不良兵の烙印を捺され、あるとき発熱して容態が悪化したおり、その四日後、東インドに
6カ月もいないまま死去してしまった。かれが東インドで体験したものはデパイプと、兵
士に禁止されている華人カンプンの飲み屋ワルン、そして憲兵隊留置場がそのすべてだっ
たのかもしれない。


われわれは翌日、バタヴィアをネーデルランド号と共に去るアブドゥラを見送りにタンジ
ュンプリオッ港へ出かけた。みんなは故郷の親族に言づてを頼んだ。こんどアブドゥラが
バタヴィアに戻って来るときには、きっと故郷からの便りと一緒だろう。友よ、その日ま
で。[ 完 ]