「バタヴィア紀行(終)」(2020年07月09日)

< 後記 >
この作品は、19世紀末にバタヴィアの首都防衛軍予備隊の兵士となった作者が、ずっと
後になって昔の感慨を思い出しながら書いたもののようだ。作者はオランダでこれをマス
メディアに載せようとしたが、最終的にバタヴィアで活動している出版社が採り上げてく
れた。

掲載されたのは、植民地軍を退役してジャーナリストになったクロックナー・ブロウソン
H.C.C Clockener Broussonが発行している雑誌「オランダの旗」Bandera Wolandaで、1
910年から1912年にかけて分載された。掲載に当たって、ブロウソンがかなり原稿
に手を入れたようだ。掲載するためにはブロウソンの自由な書き換えを認めることという
交渉内容を記した手紙が残っている。オランダで発表できなかったのは、原稿のクオリテ
ィに問題があったからなのかもしれない。

内容は、作者がバタヴィアへやってきた最初の数日間にバタヴィアを周遊して、そのとき
目に触れた印象を書いている形になってはいるが、そして本人の身の上話からその時期は
19世紀末だろうと推測されるのだが、実際にこれが書かれたのはそれから十数年経過し
た後の時期であり、つまりは二十世紀初期に当たっていて、作品に書かれてある内容がほ
んとうに十九世紀末のことなのかどうかについては確信が持ちづらい。

そこまで細かな時代考証をしなくても、バタヴィア最期の半世紀の状況と雰囲気をわれわ
れはここから感じ取ることができるだろうと考えて、わたしはこの作品を紹介することに
した。写真や地図や年代記をまとめたその土地の歴史よりも、その時代を目で見、肌で体
験した人の手記のほうが、過去の時代のイメージを構築するのにはるかに強力な手引きに
なるであろうことは論を待たない。

作者もこの自作をバタヴィアの観光振興の一助にという意図の下に書いている。本文中に
も見られるように、ジャワ島観光を望むオランダ本国人は微々たるものでしかなく、反対
にアメリカ・イギリス・ドイツからの観光客がマジョリティを占めていた時代であり、も
っと大勢のオランダ人にバタヴィアを見に来てもらいたいという作者の希望がこの作品の
中に漂っている。

原文には軍や政庁への批評なども記されているが、わたしの意図にそぐわないので、ほと
んどを割愛した。読者には、オランダ植民地時代のジャカルタの雰囲気を、この拙訳を通
して少しでも味わっていただければ、大いなる幸いであります。


原作にある、バタヴィアの夜回りの話と植民地軍の脱走兵事件は観光記の中に入れずに別
稿とすることにした。夜回りの話は下記するとして、脱走兵事件はまた別の記事にて紹介
しようと思う。

ジャカルタの住宅地区では、道路に一定距離を置いて警備詰所が設置されている。プリブ
ミはそれをガルドゥgarduと呼んでいる。この言葉はひょっとしたらフランス語に由来し
ているのではないだろうか?フランス語にはgardeという言葉があり、そして住宅地区で
夜間警備のシステムが行われるようになったのがダンデルス総督の時代だったのだから。

そのガルドゥには夜、数人のプリブミがやってきて警備に当たる。ガルドゥは石造りの箱
のような形をしていて、その中には椅子や仮眠できる家具が置かれている。かれらは夜の
間、交代で見張りに立つから、非番のときに仮眠するということだ。かれらの武器はほと
んど武器と呼べないもので、普通は長い竹竿の端にフォーク様のものを取り付けたのを使
って、逃げる賊を後ろから捕まえる。

詰所の表にはクントガンkentonganあるいはトントンtong-tongと呼ばれる穴をえぐった長
い木の棒が吊り下げられ、30分ごとに鳴らされる。クントガンは火災・殺人・泥棒など
の異変が起こったことを住民に知らせる警報器だ。クントガンはたいてい、筒棒の上部に
彫刻が施されている。

巡回パトロールの警官やオパスがやってくると、見張りは「ヴェルダ?」と誰何し、やっ
てきた者は「プレン」と答える。ヴェルダはWie ist daar?、プレンはvriendのことだ。
あちらこちらの警備人は焚火をする。見張りに就いている者たちは焚火を囲んでうまそう
にタバコを吸っている。この警備システムの正式名称はherendienstと呼ばれ、住民の自
主的夜間見回り制度を指している。

この制度では、警備人は地元住宅地の住民で、報酬はなく、交替でこの義務を果たす。地
元のエリートはたいていこの義務に従わず、金を払って代行者を雇う。

警察はその機能の大改造を現在進めていて、このガルドゥ制度は廃止される方向になって
いる。[ 完 ]