「バタヴィアの路面電車(1)」(2020年07月14日)

歩行者やさまざまな乗り物が往来する道路に線路を敷いて、多数の人間を乗せることので
きる大型の車両がそこを通行するという、いわゆる路面電車が昔のジャカルタ市内を走っ
ていた。もちろん、オランダの植民地下にあるバタヴィアでオランダ人が始めたことだ。
路面電車というのは、路面の軌道上を走行するのが電動の車両だから路面電車なのであり、
電化が行われる前は電車でない別の車両が走っていたから、電車と呼ぶことができない。

オランダでは1864年から馬車による路面軌道方式大量輸送が始まり、70年代後半に
は徐々に蒸気式に切り替えられていった。アムステルダムの市内をトラム会社が初めて商
業走行したのは1875年6月3日であり、最初は馬車が走り、電化は1900年に行わ
れた。

オランダ人はこの交通システムをトラムヴェフtramweg、略称トラムtramと呼び、プリブ
ミはそれをトレムtremと発音した。英語に代表されるヨーロッパ語の[a]を[e]に置き換え
る習慣はオランダ時代から始まっていたようだ。バタヴィアではじめて敷かれた路面軌道
を最初に走ったのは乗合馬車だった。インドネシア人は馬トレムtrem kudaと呼んだ。


オランダ人マルティヌス・ペトルス・ペルスMartinus Petrus Pelsがバタヴィアから祖国
に帰った時、鉄道乗合馬車が走っているのを知ってバタヴィアにそれを持ち込むアイデア
を抱いた。

1867年6月、かれは4人のアルバイトを雇い、レストラン「Tentee」、マンガブサー
ル橋、ハルモニ交差点、カンプンバリ橋で毎日朝8時から12時間、三週間にわたってサ
ーベイを実施させた。そして得られた結論は、信頼でき、且つ廉価な公共輸送機関の必要
性をバタヴィア住民は感じているというものだった。

それに従ってかれは、資本金80万フルデンの公共旅客運送会社バタヴィアトラムヴェフ
Bataviasche Tramweg Maatschappijを立ち上げた。しかし政庁への会社登記の際の払込資
本金はわずか5万フルデンだった。


1867年12月に事業許可が下り、翌年9月にはオランダへ発注した馬車と厩舎がバタ
ヴィアに届いた。40人乗りの車両はカハルkaharと呼ばれた。昔のカスティルkastilの
跡地に近いアムステルダムポーツAmsterdam Poort(現在のコタインタンKota Inten)に
ターミナルが置かれ、そこからピントゥブサールPintu Besar⇔モーレンフリートヴェス
トMolenvliet West⇔ハルモニHarimoieまで線路が敷かれて、その間の商業運行が186
9年4月20日に開始された。

オランダ語のpoortとは門のことであり、アムステルダムポーツとはそこに設けられた大
門に付けられた名称だ。ちなみにピントゥブサール通りJl Pintu Besarのオランダ時代の
名称はニューポーツストラートNieuwpoortstraatとなっている。

アムステルダムポーツはVOC時代からのバタヴィア城市内儀典道路である今のチュンケ
通りJl Cengkehのほぼ北端に位置していた。別称としてピナンポーツPinangpoortやカス
ティルポーツKasteelpoortsという名前も使われていた。歩行者や一般の馬車はこの大門
の下を通っていたが、トラムがそこを通るのは危険なため、トラムウエーは大門の東側を
迂回する形で線路が敷かれた。

線路はそこからまっすぐ南下してスタッドハウスプレインStadhuispleinに達すると、広
場北側を右にねじれてピントゥブサール通りに入り、そのまま一路ハルモニ目指して南下
するというルートだった。

一両のカハルを3〜4頭の馬に引かせた乗客定員38人乗りトラムの運行時間は午前5時
から夜8時までで、5分ごとに馬車が一台通ったという話になっている。料金は一回乗る
のにひとり10センという、たいへん廉いものだった。サドを雇ってパサルバルからスネ
ンまで走ると50センかかったのだから、その廉さが判るだろう。切符は降りる時に車掌
に渡すようになっていた。ひと月間有効な定期券も発行されたらしい。[ 続く ]