「バタヴィアの路面電車(2)」(2020年07月17日)

その後更にハルモニからタナアバンTanah Abangに南下していく線と東に折れて水門橋
Sluisbrug⇔パサルバルPasar Baru⇔ヴァーテルロー広場Waterlooplein⇔スネンSenen⇔
クラマッKramat⇔マトラマンMatraman⇔メステルコルネリスMeester Cornelisというルー
トを取る線に分岐する形で延長がなされた。

乗客が自分の降りたい場所で車掌に降りることを告げると、車掌は鐘を鳴らして御者に停
車を命じ、御者は馬を制し、ブレーキを引いてカハルを止めた。どこでも止まって客を乗
せ、客の言うままに止まって客を降ろすという方式は、バタヴィアで公共運送が始まって
以来の伝統だったということのようだ。


4月の10日間にこの新設大量輸送機関の利用乗客数は1千5百人に達し、およそひと月
間で3千4百人を輸送した。9月末時点での累計利用者数は7千人に上っている。

その後カハルは改良が施されて、軽量鉄材の使用量が増やされたことから頑丈さや耐久性
と共に乗客収容能力が向上し、48人乗りになった。

しかしこの馬トラムにはいろいろな問題があった。大小便を大通りにまき散らすのは、は
なはだ衛生上審美上で問題がある。バタヴィア市管理当局は馬におむつをはかせるよう会
社側に義務付けた。

更に、乗客の乗った超重いカハルを3〜4頭の馬に引かせたため、過重労働で馬が走行中
に倒れたり、そのまま路上で死んでしまうようなことも再三発生した。そのため会社は路
線の要所要所に替え馬を用意しておかなければならなかった。

馬はスンバ・スンバワ・ティモール・タパヌリ・プリアガン・マカッサルから調達された
という話がある一方で、南アフリカから輸入されたという話も見つかる。

御者はクラクションとしてラッパを吹いた。御者が馬の動きを統御するために、馬には鉄
製のくつわを噛ませてその紐を手綱と一緒に握った。後の時代になって、この馬トラム時
代を表現するのに、馬が鉄を噛んだ時代zaman kuda gigit besiという慣用句ができあが
り、更には「古い昔」を形容する紋切り型インドネシア語句になっている。


1880年、バタヴィアトラムヴェフ会社は経営問題のために操業維持が困難になり、馬
トラム運行業務はFirma Dummler & Co.が代行するようになった。ここの話の詳細がよく
わからないのだが、ここで経営問題と言っているのは純然たる経営上の問題であり、財務
面の問題ではないように思われる。経営陣の不和でも起こったのだろうか?

1881年9月19日、BTM社は東インドトラムヴェフ会社Nederlands-Indische Tram-
weg Maatschappijに社名変更し、事業内容を馬トラムから蒸気トラムに変えて、ドイツの
グラーフェンベルグにあるホエンツォランHohenzollern社製蒸気機関車を輸入した。第一
号車の価格は8千8百フローリンだったそうだ。

NITM社が運行させる蒸気トラム公式運転は1883年7月1日からアムステルダムポ
ーツ⇔ハルモニ間で開始された。続いて同年8月5日にハルモニ⇔クラマッ間が開業した
が、クラマッ⇔メステルコルネリス間は1884年9月15日から始められた。メステル
コルネリス⇔カンプンムラユKampung Melayuターミナル間は1891年2月28日に開始
されている。最後の馬トラム運行は1882年6月12日だったとのことだ。


蒸気トラムは先頭が石炭を焚いて走る機関車、そして一等から三等まで等級に分けられた
客車が後ろにつながる。一等車はヨーロッパ人と印欧混血者、二等車はアラブ人・華人・
プリブミ貴族、三等車はプリブミ平民が対象乗客で、料金がそれぞれ異なっていた。しか
し対象乗客というのは多分鉄道会社の想定でしかなく、厳格なアパルトヘイトは行われな
かったようだ。結局は支払い能力で差別されたということなのだろう。

蒸気トラムの運行は午前6時から夜7時までで、グロドッやカリブサールのナイトスポッ
トで遊ぶ客の足はプリブミの馬車などに委ねさせ、プリブミの稼ぎの機会を確保させてい
たそうだ。[ 続く ]