「喫茶の愉しみ(前)」(2020年07月14日)

お茶は世界的嗜好飲料だ。毎日お茶を飲んでいる人間が地球上には30億人超いると言わ
れている。インドネシア語情報によれば、茶葉はブラックティ―、グリーンティ―、ウー
ロンティ―、ホワイトティーに大別されるそうで、日本人が言う紅茶とはブラックティ―
を淹れ出した液体の色を指しているから、その区分に従うなら紅茶を飲んでいるひとはブ
ラックティーを飲んでいると言うのが正確な表現になるのだろう。

それらの種類の違いは原材料に由来しているのでなく、原材料はすべて同種のCamellia 
sinensisの葉や芽であり、加工プロセスの違いによって異なる最終製品が作られていると
いうことらしい。紅茶の誕生を長い航海の間に発生した酸化現象という偶然に結び付けて
いる話が昔は一般的だったが、今では別の話が有力になっている。

それによれば、紅茶は明の時代に福建省で開発されたもので、その珍品をポルトガル人が
手に入れ、1662年に英国王チャールズ2世の妻となったポルトガルの王女カタリナ・
ドゥ・ブラガンサCatarina de Braganca(英語でCatherine of Braganza)がイギリス宮廷
に持ち込んだ結果、イギリス宮廷で一大流行をきたした。いくらでもある緑茶に比べて希
少品の紅茶は値段がべらぼうであり、自ずとイギリス社会のステータスシンボルになった
ようだ。紅茶を飲まずば卑賎な人間というのが、ここで言うステータスシンボルの意味だ。

1689年にイギリスは福建省厦門に基地を置き、ブラックティーを買い集めて本国に送
り込んでいた。イギリスがインドで紅茶の量産体制を作ったのは1820年代であり、そ
の間の百数十年間、イギリス社会で紅茶は贅沢品であり続けたに違いあるまい。もし長い
航海の間に緑茶がすべて紅茶になるのであれば、イギリスにおける紅茶の庶民化は百年以
上早かったことだろう。


わたしの世代が吸収した伝統的国際知識は、一般的に常識と呼ばれていたと思うのだが、
実にどうも頼りない。ひょっとしたら、だれかが聞きかじった話を言い立てたものを、別
ソースからの情報でその確証を取ろうともせずに一民族の全員が鵜呑みにして信じ込んで
いたのではないかという雰囲気がふんぷんとして漂ってくる。

日本の昔の学術界にそれを修正する仕組みも力もなかったということなのか、それとも日
本人の知性は追従者に一般的な付和雷同型でしかなかったのだろうか。

昨今ですら、日本民族は数少ないマスコミが流す日本語情報だけにもとづいて民族的コン
センサスを作り上げているように、わたしの目に映っている。義務教育になっているせっ
かくの英語を経済ツールにするだけでなく、どうして個人個人の知的生活を高めるための
情報収集ツールに使わないのだろうか?

義務教育を受けた日本人なら、多少なりとも英語には親近感があるはずだ。中には、外国
語というのはすべて英語と解釈しているような日本人がいるくらい、英語に対する親しみ
の感情はすさまじいように見える。

日本で報道されている国際的なものごとについて、アメリカ人・イギリス人が述べている
情報、またできればフランス人や他のヨーロッパ人から中国人やアラブ人などが英語で述
べている情報を多少なりともかじって見れば、日本のメディアが流している国際関連情報
ははるかに中道的な位置に修正されて受け取られるはずとわたしは考えている。

これは英語好きの特定日本人が自分の英語能力を高めるために行うこととはまったく異な
る趣旨のものだ。メディアが自民族の情緒に訴えて視線を偏った方向に向かわせている場
合、外国人の視点とものの見方を知ることによって、情緒的な偏りはもっと論理的な、感
情的色合いの薄いものになっていくはずだ。いつまで経っても改善されないこの体質は民
族性なのか、それとも単なる外国語に対する畏怖感あるいは嫌悪感(本質的にそれはクセ
ノフォビアではないのか?)がもたらすものなのか。

日本人は外国語を学問にした。その結果、外国語に対する姿勢に歪んだものが混じりこん
で、本来のコミュニケーションツールから外れたものに仕上げてしまった。言語は意思疎
通のための道具なのであり、道具の巧拙に使用者の人間的クオリティを関連付ける必然性
がない。拙であっても、目的が達せられることが現実生活における最優先事項なのだ。と
ころが学問は人間のクオリティを評価する要素の重要なひとつにされている。わたしが歪
んでいると言うのはその点だ。

知的レベルで日本人より優れているとは思えないインドネシア人が英語を使う意志疎通で
十分に効果をあげているのは、かれらのツールとしての言語使用技能が日本人より並外れ
て高いからだ。文法的にあやふやな英語をしゃべっているにも関わらず、人間同士間の意
思疎通は十分に取れている。

一方、学問として英語を習得した日本人は、音声言語音痴になり、また対人接触の場でそ
れを活用するすべを身に着けていない。インドネシア人がどうして英語に器用なのかとい
うのは、多重言語者という環境に生まれ育ったかれらにとって非母語はすべからく道具で
しかなく、自己の人格評価とは無関係なものとして道具扱いしているためだとわたしは見
ている。

ともあれ、一民族が全員その話を信じて民族的常識としていたのに、実はそれが本当では
なかったというこの現象を、その民族にとって空恐ろしいものではないかと感じるひとが
どれほどいるのか。それが日本の歴史の通奏低音のひとつに混じりこんで民族史を形成し
てきたものであるのなら、「二度と繰り返しません。」などという決意表明だけでなく、
自分たちが改善できることをもっと真摯に実行するべきではあるまいか?はたしてこの民
族は今現在、常識というものの組み立て方を地に着いたものにできているのだろうか?
[ 続く ]