「バタヴィアの路面電車(3)」(2020年07月20日)

NITM社が蒸気トラムの運行で繁栄を謳歌しているとき、競争相手が出現した。新設の
バタヴィア電気トラムヴェフ会社Bataviasche Electrische Tramweg Maatschappijがチキ
ニの動物園とハルモニを結んで1899年に運行を開始したのだ。

NITM社の資産である既存の蒸気トラム線路の上に送電架線を敷設することなど勝手に
できるわけがないから、BETM社は電車運行路線を別に見出さなければならなかった。
そのためにかれらが採った事業戦略がコニングスプレインの西と南を通る路線の開発だっ
たことは想像に余りある。

チキニCikini地区はヴェルテフレーデンから外れた南側のプリブミ地区であるクウィタン
Kwitanに南接するエリアで、クラマッKramatの西側にある。チキニの西側のゴンダンディ
アGondangdiaを中心にしたヨーロッパ人高級住宅地区メンテンMentengが開発されるのは
数十年後だから、その時期にBETM社がチキニまでトラム線路を敷いたのが、チキニ地
区からの利用者の多さを期待してのものだったとは考えにくい。チキニ地区の中央辺りに
動物園があり、バタヴィアの各地から家族連れが遊びに来る場所になっていたことが、チ
キニ地区に線路を敷こうというBETM社の戦略を支えるものだったことは十分想像され
るのである。

ヨーロッパから戻った画家ラデン・サレがヴェルテフレーデンから少し離れたチキニ地区
に5.7Haの土地を買い、ドイツのカレンベルク城を模した豪邸の建設を開始したのが
1852年。当時のチキニはブタウィ人カンプンが散在する、閑散たるエリアだった。
この地区に住むプリブミはクブンシリ通り〜コニングスプレイン南からコニングスプレイ
ン東〜プラパタン通り〜パサルスネンに行きやすいという地の利を生かして、サドやデル
マンなど馬車運送業を行う者が多かった。地区内にはたくさん広場があって馬小屋が連な
り、馬は東のチリウン川へ連れて行って水浴させていた。

ラデン・サレは豪邸を建てた後、1862年に自分の土地の南端エリアに植物園を作り、
さらに1864年には動物園を設けた。この動物園がBETM社の事業戦略の目玉にされ
たということのようだ。

ちなみに、ラデン・サレの植物園と動物園は1960年、その場所にジャカルタ市がTI
M(Taman Ismail Marzuki)を建設するために閉鎖し、動物園は南ジャカルタのラグナン
Ragunanに大規模動物園が開かれてそちらへ移転している。


BETM社はチキニの動物園からメンテン⇔ガンジャクサGang Djaksa⇔カンプンリマ
Kampung Limaを通ってタナアバン市場に至り、そこから北上してハルモニに達する路線を
設けて運行した。1899年4月9日に開始されたこの路線はすぐにスネンに向けて延長
され、4月29日にはチキニからカリパシル通りJl Kali Pasirのチリウン川を渡る橋を
通って川の東岸へ出た後クラマッで蒸気トラムの線路と交差し、北上してパサルスネンの
北まで運行するようになる。

こうして旧バタヴィア城市からグロドッ〜ハルモニ〜ヴェルテフレーデン〜スネン〜メス
テルコルネリスというバタヴィアの有力ルートを通る蒸気トラムと、ハルモニからコニン
グスプレインの外側を回ってチキニ、そしてクラマッ〜スネンという新バタヴィアの外周
を巡る電気トラムの二本立てという時代が始まった。

続いてBETM社は意欲的にスネンからべオス駅南まで線路を延長させて、旧バタヴィア
城市へのアクセスを確保する。電気トラムがべオス駅、つまりバタヴィア駅までの運行を
開始したのは1900年7月1日のことだった。電気トラムと蒸気トラムはバタヴィア駅、
ハルモニ、クラマッで接続し、乗客はその三カ所で乗り換えることができるようになった。
[ 続く ]