「バタヴィアの路面電車(5)」(2020年07月22日) パサルイカンには水族館があったため、チキニ動物園と共に休日の行楽先の目玉になって いた。そこは元来、ボゴール植物園の動植物研究ラボが魚類研究のために設けた研究所で、 1923年12月12日に大量の生体標本が水族館として一般公開された。東南アジアで 最初の水族館だった。 共和国独立後も基本的に水族館は維持され、たくさんのプリブミ訪問者が休日やルバラン にそこを満員にした。ひとびとは電気トラムをそこへ行くための足に使った。1970年 代になって海洋博物館建設構想が動き出したことから、パサルイカン地区の観光行楽スポ ットとしての位置付けに変化が起こり、水族館は閉鎖された。 パサルイカン地区の一角にあるカンプンはカンプンアクアリウムKampung Akuariumと呼ば れており、水族館の名ごりを今に残している。 電気トラムも朝6時から夜7時までの運行だったそうだ。速度は時速20〜30kmで、 交差点では交通警官のゴーストップに従って止まった。自動信号機のまだない時代だった から、プリブミの交通警官が信号板を持ったり背負ったりして交差点の真ん中でぐるぐる 回っていたようだ。 電気トラムは全三両編成で、車両ごとに一等・二等・三等に分けられ、一等の乗車料金は 一回20セン、三等は10センだった。一等乗客数は総数の15%くらいだったそうだ。 行商人などの大量の荷を担いで乗る客用に天井のないpikolanwagenと呼ばれた車両も使わ れたという話が見つかるのだが、それが電気トラムの時代にそうだったのか、それとも蒸 気トラムの時代だったのか、この情報を書いた人間に尋ねようがないからよく分からない。 蒸気トラムの古い動画にはそのようなシーンが確かに映っている。 後にインドネシアを代表する著名な出版業文化人になったジャーナリスト兼作家でもある モフタル・ルビスMochtar Lubisが故郷のパダンから1939年ごろ初めてバタヴィアに 上京したころの追憶を記した文章がある。かれはバタヴィアの電気トラムをたいそう気に 入っていた。 今は消滅してしまったあの時代のジャカルタのユニークさはジャティヌガラからコタまで 走る都市トラムだ。料金が廉いばかりか、たいへんに実用的だったので、わたしはトラム を大いに使った。車両には一等車があり、そこはたいていオランダ人ばかり乗っている。 料金はその下のクラスに比べてとりたてて高いわけでもないのだが、一般プリブミにはや はり負担だったにちがいあるまい。しかしインドネシアナショナリズム闘争の洗礼を既に 浴びているわたしは、しばしば一等車に座った。中に座っているオランダ人に嫌な思いを させてやろうというだけのために。かれらはわたしを、意を含んだ目で見る。わたしもそ の眼付をかれらにお返しする。だが、かれらがわたしに、それ以上のことをしようとする ことはなかった。なぜなら、わたしは一等車料金を支払っているのだから。[ 続く ]