「ヌサンタラのポルトガル人(1)」(2020年07月29日) テジョ川(Rio Tejo 英語名はテイガス川Tagus River)に向かって立っているアフォンス・ ドゥ・アルブケルケAfonso de Albuquerqueの像はリスボン市内ベーレムBelemのアルブケ ルケ庭園にある。15世紀後半からアジアに向けて続々と出帆して行った船隊の旅立ちの 出発点をアルブケルケの像は永遠に見つめ続けているのだ。 ポルトガル船隊は大西洋を縦断し、喜望峰を回ってインド洋を渡った。何カ月もかかる航 海の末に、かれらはインドのゴアGoaに達し、更にマラッカMalaka、そしてマルクMaluku のスパイス諸島にたどり着いた。 アルブケルケ庭園から北西に5百メートルほど離れたサンジェロニモ礼拝堂Capela San Jeronimoで旅立つすべての船と乗組員にカトリック司教と国王が祝福を与えた。1502 年に建てられたその礼拝堂は今、考古学博物館と海洋博物館になっている。国王マヌエル 1世がヴァスコ・ダ・ガマVasco da Gamaの東方航海に合わせて建てたものだそうだ。 海洋博物館Museu de Marinhaがオープンしたのは1863年で、国王ルイス1世の時代で あり、ポルトガルの大航海時代の歴史がそこにたっぷりと集められている。この博物館に もアフォンス・ドゥ・アルブケルケの肖像画が飾られ、「1509−1515インド総督、 オルムズ・ゴア・マラッカを基軸にしてインドにおけるポルトガル王国の基盤を築いた。 海洋政策を王国の発展センターに据えた先駆者。」という説明が添えられている。そして ポルトガル船隊がアジアから運んできたさまざまな物産もこの博物館に展示されている。 あるデータによれば、1500年から1635年までの間にアジアに向けて出帆した船の 数は912隻で、目的地に到着できた船はそのうちの768隻、目的地での用向きを終え て故国に帰還しようと出帆した船は550隻で、祖国の土を踏むことができた船は470 隻だったそうだ。 ポルトガルがアジアに向けて進出した動機は、単一ではない。ポルトガル人はそれを三つ にまとめて説明した。feitoria通商、fortaleza征服、igreja宗教がそれだそうだ。つま り物産や富による支配、軍事力による支配、宗教による支配がその意味するところだろう。 国威発揚が戦争と支配によって行われていた人類史の一ページなのである。 アフォンス・ドゥ・アルブケルケは第二代インド総督としてゴアに赴き、スパイス交易で 当時最大の中継港だったマラッカを攻略するために自ら大型軍船15隻を率いて1511 年7月初めにマラッカへの侵攻を開始し、翌8月10日にマラッカ王国を陥落させてしま った。続いてその年の12月に三隻から成るマルクへの船隊がアントニオ・ドゥ・アブリ ウAntonio de Abreuの指揮下にマラッカを出帆する。フランシスコ・セハウンFrancisco Serraoが中の一隻を指揮し、フェルノウン・ドゥ・マガリャエンスFernao de Magalhaes (マゼラン)はこの遠征隊の一員として船隊の中にいた。 船隊はマラッカを出てスマトラ島⇒ジャワ島⇒バリ島⇒ロンボッ島⇒スンバワ島⇒フロー レス島の海岸線をたどり、北上してバンダ島に達したのが1512年半ば。この遠征隊は 更なる航海の任に堪えないと判断したアブリウはマラッカへの帰還を決断する。目的地と されたテルナーテ訪問は次の機会に譲ることにした。ところが皮肉なことが起こったので ある。 フランシスコ・セハウンの船がアンボン湾まで漂流したあげく、そこで沈没したのだ。セ ハウンと乗組員を救出したのはアンボン島のヒトゥHitu王国の民衆だった。セハウン一行 はヒトゥの賓客として遇せられ、更に一行の希望を聞き入れたヒトゥ王国がかれらをテル ナーテに運んでくれた。 テルナーテのスルタンは一行を受け入れた。テルナーテが行っていた周辺諸国との間での 地域覇権を争う戦争でポルトガル人の助力が大きな効果をあげた結果、テルナーテの優位 が域内に確立されるようになり、セハウンはスルタンの公私にわたる助言者となって絶大 な信頼を得、スルタン宮廷内での最大の実力者にのし上がる。このテルナーテとポルトガ ルの合作が、テルナーテ王国最大の敵、ティドーレTidore王国にスペインとの合作を誘う ことになり、四勢力が入り乱れての北部マルクの動乱へと発展していく。[続く]