「ヌサンタラのフランス人(8)」(2020年08月17日)

社会生活では、慣習であれ支配者が出したものであれ、だれもが決まりを厳格に守ってい
る。法を犯した者には裁判が行われて、判決が下される。盗みは、些細な物を盗んでも、
初犯であれば手を切り落とされる。再犯になれば、両足と残った手を切り落とされる。不
倫を行えば、男は性器を切り落とされ、女は鼻を切られたり目をくりぬかれる。殺人者は
その者が行ったのと同じ方法で殺されるか、あるいは象を使った死刑執行がなされる。象
使いの命令で象は死刑囚を鼻で巻き上げ、口に持って行って歯ではさんでから、空中に放
り出す。そして地上に落ちたその身体を踏みつけるのである。あるいは、殺人犯がトラの
餌食にされることもある。

王は法を超越しており、裁判などなしに仕置きを与える。使用人が犯した些細な失敗事に
怒った王は、すぐに手を切れ、足を切れ、と命じる。われわれが滞在中に起こったできご
とがある。贈り物にもらった犬の世話をさせていた使用人のひとりが犬を連れて歩いてい
たとき、犬と水牛が喧嘩をしてその犬は殺されてしまった。その報告を聞いた王は即座に
その使用人の手首を切り落とさせた。王の命令は絶対であり、だれにも反論は許されない。
またその命令はすぐに実行されなければならない。

王の部下のひとりは港湾長で、軍司令官と同じ地位にあり、王国の統治行政の細部をかれ
らが取り仕切っている。今の港湾長は至って貪欲で、かれに何かを頼もうとしたら、かれ
への代償がなしには絶対に実現しない。


ここの地は東インドの他の土地と同じように、ふたつの宗教が併存している。ひとつはお
よそ30年前から始まったムハンマッの教えで、もうひとつは古い昔からの偶像崇拝だ。

ムハンマッの教義信奉者は、天地を創造した神はひとつしかないと信じている。この地上
に出現した偉大なる預言者はモーゼ、イエス、ムハンマッの三人だけであり、モーゼは神
の啓示を伝え、イエスは奇跡によって神の手となり、ムハンマッは神の啓示を解釈した。

ユダヤ人がイエスを磔刑にしたのは、イエスが偉大な預言者だったからだ。かれらが待っ
ているこの世の終末における最後の審判では、モーゼの信奉者はモーゼと共に、イエスの
信奉者はイエスと共に去って行くことが信じられている。かれらはアルクルアンの命を実
行し、モスクには大衆の礼拝を指揮する宗教指導者がいて、夜明けから日没まで何度も
「アッラー」という言葉を口にする。朝は長い時間宗教歌を唄い、夕方も同じようにして
いる。モスクに入る前はだれもが手・顔・足を洗う。モスクに入る12歩内に水溜めがな
ければ、陶器の巨大な容器に溜められた水を使う。そこからモスクの入口までは踏み石が
置かれていて、洗った足を汚さないでモスクに入るようにしてある。かれらの生活には休
日というものがない。ただ金曜日はわれわれの日曜日のような特別の日だ。


人が死ぬと、女の一団が故人の家にやってきて泣く。それは商売なのだ。女たちは悲嘆に
満ちた表情で、大声で慟哭するから、われわれは悲しみの深さを思いやることになるが、
泣くのを休んでときどき一緒に何かを食べたりしており、そのときは笑いながらふざけあ
っている。

仲間の死を悼む者は数日間、シリを噛んだりアラッを飲むことをやめるという社会通念が
あるものの、たいていの者は自宅にいるときや町中を歩くときに、その通念に違反する。
悲しみに捻じられた腹を回復させて消化を良くするというのが言い訳だ。この社会通念は、
仲間たちが故人に向ける尊敬の気持ちを社会に表明することで調和を作り出すための習慣
だ。それに従っていれば多少の違反は構わないが、従わない場合はその者が故人への恨み
や憎しみを抱いていると世間から見られる。


偶像崇拝者は、朝家から出たときに最初に目にした動物がその日の運勢を決めると考えて
いる。かれらは雄と雌の牛をとても神聖な生物と見なしているため、牛の屠殺は行わない。
かれらは牛の排泄物が落ちている場所すら、神聖視する。かれらはパゴデpagodeと呼ばれ
る祭祀堂を持ち、そこに香料を捧げ、かれらが食べる前の肉を供える。食事で残った食べ
物は鳥に与える。

かれらはキリスト教徒が使った水飲み容器を穢れた物として二度と使わない。あるときわ
れわれのひとりが原住民の陶器の器で水を飲んだところ、原住民はそれをすぐに地面に投
げ捨てた。かれら自身もその種の器で肉を煮るときは、一回使ったら捨てるのだが。
[ 続く ]