「ヌサンタラのフランス人(9)」(2020年08月18日)

かれらの宗教儀式を率いる者はブラッマネbrahmaneと呼ばれる。ブラッマネが亡くなると、
その妻たちは夫の火葬の火の中に自らを投じる。それをする妻は忠実な妻であり、しない
妻は不忠実な者というレッテルが貼られる。原住民たちの話によれば、その慣習は妻が夫
を毒殺したという嫌疑を免れたいがために、自ら進んで行うものであるそうだ。ブラッマ
ネは飯と野菜しか食べない。

かれらは何かを決意するとパゴデに向かって誓いを述べる。人間の霊魂が他人の身体に移
動することを信じていて、その理屈を語るのだが、まるで奇妙なロジックが使われる。

父親と娘が、母親と息子が、兄弟と姉妹が、男女の交わりを行うことは少しも禁じられて
いない。それはたいへん大きな罪であるとわれわれが言うと、かれらはこんな説明をした。
ひとはだれでも木を育てたなら、できた実を賞味したいと思うのは自然なことだ。妻に産
ませた子供が恩を返そうとするようなことは、滅多に起こらないのだから。


東インドにはだれもが理解している美しい言葉がある。ムラユ語というその言語は、ヨー
ロッパにおけるラテン語のようなものだ。

かれらの住居は、大人の背くらいの高さの柱の上にヤシやグラガの葉で作られ、屋根もそ
れで葺かれているから、たいへん燃えやすい。われわれが滞在中に起こった火事では、6
時間経たないうちに3百軒を超える家屋が灰になった。

火を出した家の主は、当然自宅も灰になったのだが、裁判で腕を切り落とされた。王は民
が石造りの家を建てることを絶対に許さない。謀反者の防御陣地に使われる可能性がある
からだ。

内陸部に住んでいる者は食人種族だ。かれらは人肉を食べるとき、とても残忍な方法を使
う。かれらは人間を捕まえると四肢を切り落として放置するから、被害者は長時間苦しみ
ながら死んで行く。人肉を食べる時はコショウが使われる。白人よりも黒人の肉のほうが
好まれているようだ。

町では、住民のための市場が昼間、数時間だけ開かれる。そこで野菜・果実・魚・緑の酸
っぱい実や葉、ナス、ムンクドゥ、ドリアン、パイナップル、マンゴ、ナンカ、マンゴス
チン、ランブタン、バナナ、ヤシ、その他ここに書ききれないくらいさまざまな果実類を
買うことができる。

通り沿いにはトルコ風の服を着た商人たちの店がたくさんある。かれらはナガパティナム
・グジャラート・コモリン岬・カリカット・セイロン・シアム・ベンガルなど広範は地域
からやってきたひとびとであり、半年間ここに滞在して持って来たグジャラート製綿布や
絹の敷物、植物製手工品、綿糸、焼き物、スパイス、伝統医薬品、宝石などを販売する。

かれらは頭にターバンを巻き、トルコ風の衣服を着ている。ここでの6カ月間の暮らしの
ために妻を伴って来た者もあるし、現地妻を買う者もいる。6カ月後に帰国するとき、次
にやってきた者と交代する。かれらだけがここで販売するために他の土地にコショウを仕
入れに行く。そのとびぬけた商売熱心さのために、かれらは東インドのあちこちへ旅する
ことに臆さない。パサルのはずれには、大砲を作っている鍛冶屋があった。中国で発明さ
れたものだとかれらは吹聴していた。


われわれはアチェに5カ月間滞在し、自由な交易を許されてさまざまなスパイスや東イン
ドの珍しい品物を入手した。われわれが錨を上げたのは1602年11月20日のことだ。
われわれは8人の東インド人を同行させた。かれらはその後、ずっとサンマロに住んでい
る。

残念なことに、遠征団長の貴族ラ・バルドリエールが12月1日に死去した。1603年
3月3日、サンテレヌSainte-Helene島に到着。そこまでの三カ月間にたくさんの乗組員
が病気にかかり、多くが死亡した。生き残った者たちも疲労困憊していた。食糧は底をつ
き、島で捕まえた犬やネズミを食べた。

一週間後、われわれはベニスからやって来たオランダ船三隻に会い、積荷の一部を進呈す
るから乗船させてくれ、と頼んだ。するとオランダ人は積荷を全部取り上げた。つまり積
荷を全部与えて乗船させてもらったことになる。そのしばらくあと、クロワソン号は浸水
し始め、われわれの眼前で沈没して行った。われわれがオランダ船に乗っていたのはおよ
そ三週間で、7月13日にプリマスPlymouthに到着し、全員がそこで下りた。[ 続く ]