「ヌサンタラのフランス人(10)」(2020年08月19日)

ヴィトレの訪問から20年後にアチェを訪れた別のフランス人は、また異なる体験をした。
その20年間にアチェが大きな変貌を遂げたのは疑いがない。アチェがどのように変わっ
たのか、東インド遠征団の団長が書き残した記録を読み返してみることにしよう。


ルオンの商人たちがシャルル・ドゥ・モンモロンシCharles de Montmorency提督の庇護下
に東インド会社みたいなものを作ることを希望した。そしてできた団体にモンモロンシ船
隊という名前が与えられた。東インド会社を名乗るにはまだまだ早かったようだ。

モンモロンシ船隊の立役者のひとりはオギスタン・ドゥ・ボーリウAugustin de Beaulieu
だ。かれは1617年に三隻から成るフランス船隊の一船の船長としてバンテンを訪れた。

そのときの航海では、バンテン港でオランダVOCがかれの船を含めて二隻を略奪した上
に燃やしたため、帰りは5千8百袋のコショウを満載した最後の一隻に乗って1618年
8月6日にジエップに戻って来た経験を持っている。

ボーリウはモンモロンシ船隊の名のもとに、273人が乗り組んだ三隻の船を率いて16
19年10月2日、オンフルール港からスパイス諸島を目指す航海の途についた。


その時期、バンテンに商館を開いていたオランダVOCはバンテンの属領であるスンダク
ラパを武力征服してイギリスと組んだ統治者を追い払い、VOCの領地に変えた。そこは
後にバタヴィアという大都市に発展する。

一方、ポルトガル人はマラヤ半島のマラッカを東南アジアの拠点にし、域内通商に割り込
んできたVOCと各地で争っている。更にスマトラ島北端にあるアチェ王国は1607年
に即位したスルタン・イスカンダル・ムダがアチェの最盛期を形成しようとして強硬路線
を邁進していた。スマトラ島北半分はおおむね、アチェの支配下に落ちている。その頃、
アチェの王都は7〜8千軒を上回る数の住居が町を埋めていた。


1620年12月1日にモンモロンシ船隊の三隻の船団がティクの港に入った時、その地
の統治者はアチェ王の許しがないとフランス人にコショウは売れないという返事をした。
ボーリウはアチェに向かわざるを得なかった。

アチェ到着は1621年1月23日。アチェの港には既に数隻のイギリス船とオランダ船
が、交易許可が下りるのを何日も待って停泊している。かれらは互いに礼砲を交わし合っ
た。すると何人も役人を乗せたアチェの船がやってきた。かれらは王の使者であることを
示す王のクリス(黄金の鞘に入っている)を示して王の使者であることを名乗り、歓迎の
辞を述べてから入港税を要求した。

ボーリウは80レアルと鏡を一枚、王に献上し、ランカヨラクサマナRangkayo Laksamana
に別の鏡を一枚プレゼントした。ランカヨラクサマナは王の腹心であり、大きい影響力を
持っている。

翌日、ボーリウが船から上陸すると、足に鎖をかけられているポルトガル人が数人やって
きて、「オランダ人とイギリス人があんたを毒殺しようとしているのをわれわれは知って
いる。気を付けろよ。」と忠告してくれた。かれらはアチェ王の命令で鎖をかけられてい
るのだ。

2月3日、ボーリウは港湾長に贈り物を献じた。火縄銃2丁、見栄えの良い商品ひとつ、
鏡一枚、バラ水2瓶。港湾長はボーリウに、ティクに倉庫を作りたいなら、わたしが力に
なる、と約束した。[ 続く ]