「ヌサンタラのフランス人(15)」(2020年08月24日)

1621年5月4日、ボーリウは王に押し付けられて、仕方なくその価格で買うことにし
た。コショウの重さが計量されて、21バハルをフランス人用に出してきた。ところがな
んと、税関長が7%の関税を払えと言ったのである。「王は税金を払えと言っているのか」
と港湾長に尋ねると、港湾長は「言っていない」と答えた。市場の倍額で買わされ、さら
に税金をむしられるのが最初から分かっていれば、王の押し付けを呑むはずはなかったの
に。

税関の役人ひとりひとりも支払いを要求する。かれらは給料をもらっておらず、その仕事
で稼いでいるからだ。おまけに、その稼ぎから王に貢がなければならない。これでバハル
当たり金貨一枚が余分の出費になってしまった。

コショウを調べたら濡れている。ボーリウはコショウを用意した男に言った。これは詐欺
だ。おまえの王は交易で詐欺を働く者を許さない。おまえは手足を切られることになる。

男は顔色を変えて言い訳した。これは置き場所が悪くて雨が漏ったために濡れたのだ。た
いへん申し訳ないと言い、ボーリウが更に責めると男は自分のコショウ235バハルを市
場価格でボーリウに売った。ボーリウは救われた思いだった。

イギリス人もオランダ人も、王に押し付けられたコショウ300バハルを買わされ、おま
けに税関で追加出費を吹っ掛けられて往生していた。税関はフランス人に与えたのよりも
っと過酷な条件をかれらに出していた。


ボーリウ船団の乗組員は大勢が病気にかかり、14人が死亡していた。生き残っている者
は病人を含めて65人しかいない。操船に必要な人数にするために、かれはアチェで奴隷
にされているキリスト教徒をその主人から金で買った。かれらはゴア・コチン・マラッカ
から来たヨーロッパ人だ。

7月21日、王はフランス国王宛の手紙を大層な行列と共に送り届けて来た。だがそれは、
税関の役人どもに「王への贈り物」をフランス人からむしり取る機会を与えるだけのもの
でしかなかったのである。

ところがルイ十三世宛のその手紙には、大王としての称号献辞が見られない。1602年
のエリザベス女王からアチェ王への手紙には、女王の大王としての称号献辞が記されてい
て、これではルイ十三世は大王の膝下にある小王でしかなくなってしまう。ボーリウはア
チェ王にフランス国王の地位を説明するために、また王宮に伺うことになった。

アチェを後にした船はクダッKedahで積荷を増やそうとしたが失敗に終わり、ふたたびテ
ィクに向かった。こうして何とか満足できる積荷を載せた遠征団はスマトラを去って帰国
の途に着いた。9カ月の航海の後に1622年12月1日、一隻だけがオンフルール港に
帰還したのである。


フランス王国は1664年になってやっと、ルイ十四世の政府が東インド会社を作った。
そしてイギリスとオランダの東インド会社の向こうを張るために、オルムズや中国の主要
港に商館を開いた。だが東インド会社の商船は三隻しかなく、軍事力はライェLa Haye提
督指揮下の6隻の軍船でロシュフォールRochefortを基地にし、大砲総数238門、兵員
2千1百人が商船の警護に当たった。しかしながらこの海上部隊はコロマンデル沖海戦で
粉砕されてしまう。

1670年、フランス東インド会社の遠征団は商船ヴォントゥ―ルVontour号でバンテン
に向かった。団長はフランソワ・キャロンFrancois Caronだ。キャロンはスラッで東イン
ド会社所属でない二隻のフランス船を誘い、三隻の船団を組んで1671年7月6日にバ
ンテンに到着した。持ち込まれた商品は小麦粉2百トン、布2千バール、ベチバー根百ピ
クル、アヘン百ピクルだった。[ 続く ]