「ヌサンタラのフランス人(16)」(2020年08月25日)

キャロンのその行為はフランスの威勢を見せつけんがための振舞いと解釈された。その時
バンテンにいたイギリス人は次のように書き残している。「キャロン氏はたいへんな華麗
さをもって、ここにやって来た。20人の警護兵と一団のラッパ鼓隊ばかりか、ご本人は
盛装した騎馬隊を引き連れていたのだから。」

後にポンディシェリPondicheryを建設するフランソワ・マルトンFrancois Martinは皮肉
な口調で、「本当は一隻でやってくれば十分だったのだ。キャロンはバタヴィアの表門で
新しい強大な勢力の出現を演出したかったのだろう。」と述べている。


キャロンはまずバンテンの港湾長カイツーKaytsuの出迎えを受け、船で川をさかのぼって
王宮に向かった。カイツーはムスリム華人だ。王宮では、バンテンの統治者スルタン・ア
グン・ティルタヤサSultan Ageng Tirtayasaへの挨拶と贈り物で終わった。

フランス人は上陸してバンテンのプチナンPecinan(華人地区)に居所を構えた。7月1
6日、バンテン王は50人の近衛兵を従えてフランス人の居所を訪れた。キャロンは百人
の水夫を整列させて王を迎える。キャロンはバンテンにフランス商館を開く許可を願い出
た。王はキャロンに尋ねた。フランス人の商業会社の目的は何なのか?船団の目的地はど
こなのか?何を買い付けたいのか?持参した現金はどれほどあるのか?


翌日からフランス人の商活動に熱が入った。小麦粉はバタヴィア在住のフランス人フレイ
バーガーvrijburger(VOCの拘束を受けない自由市民)が買った。バンテンではアヘン
の流通が固く禁じられていたため、かれらはアヘンをどうすればよいのかを思案した。

キャロンはダマル樹脂、スラッ製大型机ふたつ、大型鏡ひとつ、銃1ダース、ワインなど
の王への贈り物をたくさん持って、王宮を訪れた。そしてフランス人もイギリス人と同様
の待遇と特権を与えられることが約束された。王はフランス人に5軒の小さい家屋を与え
た。もちろんプチナンの中だ。

キャロンは8月末にヴォントゥ―ル号ともう一隻を率いてバンテンを後にし、スラッに移
った。船はバタヴィアの華人から買った砂糖が満載された。バンテンの砂糖はイギリス人
が買い占めたために、バタヴィアまで買いに行かざるを得なかったのだ。残ったもう一隻
はコショウが満載されるのを待ってバンテン港にとどまっている。

フランス商館はランプン産コショウ2千5百バハルを買付て船に積み、船は10月31日
にバンテンを出港した。フランス遠征団のお偉方たちもほとんどが去って行った。商館に
残ったのはジョン・バティスト・ギロンJean-Baptiste Guilhenを筆頭に、もうふたりの
幹部、そしてふたりの商館員と8人ほどの警備兵だけだった。

フランス人は粉コショウを作るための風車を建設し、その新テクノロジーが大評判を巻き
起こした。しかしその一方で、オランダとフランスの戦争が始まるだろうという予想がバ
ンテンに広がって行った。VOCはバンテン王がフランス人を使ってバタヴィアに歯向か
ってくることを想定していたのだから。

1672年3月29日、フランスとイギリスは、同盟してオランダと戦うことを決めた。
その結果、フランス人はインドとセイロンでオランダと戦争している。そのとき、トリン
コマリーTrincomaleeとマイラプールMeilapurの沖で行われた海戦でライェ提督指揮下の
船隊はレイクロフ・ファン・フンスRijckloff van Goensの指揮するオランダ船隊に敗れ、
大勢のフランス人が捕虜になり、捕虜はバタヴィアに運ばれた。捕虜はバタヴィア港の埠
頭で監禁され、またバタヴィア市内に前から居住していたフランス人もスパイ容疑で全員
が捕らえられた。

華人が寺院を建てて宗教祭祀を行っていることを知ったフランス人は、カトリックの礼拝
所を商館内に作って宗教祭祀を行う許可を王からもらい、ポルトガル人神父アントニオ・
ドゥ・ジェズ・フェルナンデスAntonio de Jesu Fernandesをその仕事に就かせた。この
神父はバンテンがオランダに占領されたときにバンテンを退去している。[ 続く ]