「カユアロはジャワ文化の飛地(前)」(2020年08月24日)

ジャンビ州クリンチ県西カユアロ郡にあるカユアロ茶農園の寮で、台所で話しているふた
りの女性の声がコンパス紙記者の耳に届いた。2016年3月8日のことだ。

もし明日雨なら、クリンチ山麓のここで日食は見られないという話をしている。集団で行
うイスラムの日食礼拝に加わりたいふたりは、明朝の仕事と礼拝を両立させるためにどの
ようにやりくりしようかと相談しているのだ。

記者にとっては、その内容もさることながら、ふたりの会話がジャワ語のゴコngokoでな
されていることに興味を引かれた。流暢なジャワ語の会話を耳にして、記者はここがスマ
トラの山の中であることを忘れそうになった。この地方に住んでいる数千人のひとびとが、
日常社会生活でゴコを使っているのである。

台所にいたふたりの女性はエルムナシさん46歳とマルニさん56歳で、ふたりはカユア
ロで生まれ、成長した。ジャワ島へは行ったことがない、とふたりは言う。ところがジャ
ワ語の流暢さはジャワで生まれ育ったジャワ人と少しも遜色のないものだ。


カユアロ地方とジャワ人との関係は、カユアロ茶農園が開墾された発端にさかのぼる。開
墾が開始されたころ、クリンチ山麓の高原一帯は人跡未踏のジャングルであり、そのため
ここは最初からジャワ人に門戸を開いた。クリンチ地方の長老であるムスナルディ・ムニ
ルさんは物語る。

茶とコーヒーの農園を作る計画は最初、クリンチ県バタンムラギンBatangmeranginのサン
カルSangkar島に白羽の矢が立ち、サンカル島にジャワ人が送り込まれて来た。ところが
サンカル島地元民はその計画に反対したため、結局オランダ人はその数年後にカユアロを
選択して、開墾を開始した。サンカル島のジャワ人はカユアロに移された。そして更にも
っと多数のジャワ人が中部ジャワからやってきた。最初サンカル島に連れて来られたジャ
ワ人はジャワ人部落を作って暮らし始めた。地元民社会にそのまま溶け込んで行ったわけ
ではない。タミアイTamiai村にはジャワ部落Kampung Jawaが今でも存在している。

カユアロの開墾のためにオランダ政庁は1920年代はじめごろからカユアロにジャワ人
をどんどん送り込んで来た。やってきたジャワ人は茶農園周辺に部落を作り、子々孫々に
至る繁栄を築き上げた。

ジャンビ人がほとんど住んでいないジャングルをジャワ人大集団が開墾し、かれらはそこ
を自分たちの居住地区にした。スマトラの山中にジャワ人社会が移植されたのである。ジ
ャワ人は誰に気兼ねすることもなく、ジャワでの生活をそこで継続した。ジャワ語が使わ
れたのは当たり前のことであり、おまけにジャワ人上流階層のいない社会なのだから、ゴ
コ一色で塗りつぶされただろうことは想像に余りある。[ 続く ]