「カユアロはジャワ文化の飛地(後)」(2020年08月25日)

そして、人里離れた山中の茶農園がジャワ人子孫の仕事場にもなった。マルニさんは母親
から、先祖は中部ジャワのウォノギリからこの地にやってきたという話を聞かされている。

自分はウォノギリを少しも知らないし、母親さえジャワ島へ行ったことがない。母親は茶
摘み仕事をし、自分も12歳ごろから茶摘みの仕事をするようになった。仕事の仕方は母
親から教わった。小学校中退のかの女が1980年代にもらっていた月給が20万ルピア
未満だったことを覚えている。

マルニさんはもう茶摘みの仕事をしておらず、第6ヌサンタラ農園PTPN VI寮の世話
係をしている。


同僚のエルムナシさんも寮の世話係だ。「わたしの祖母もカユアロに住んでましたが、祖
母がカユアロで生まれたのかどうかは知りません。うちの先祖は東ジャワのポノロゴ
Ponorogo出身だとわたしの親が言ってました。父はマンドルで、母は茶摘みの仕事でした。
わたしの長男は26歳で、娘は21歳です。長男はお隣の西スマトラ州ソロッSolokのリ
キ農園で契約社員になってます。カユアロからあそこまでは片道3時間かかるんですよ。
娘は結婚して夫がやってる畑の手伝いをしてます。ジャガイモ・トウガラシ・インゲン・
赤バワンなどを作ってます。」
かの女の子供たちも日常生活はジャワ語ゴコだ。


第6ヌサンタラ農園会社企業秘書が面白い話をしてくれた。あるとき本社重役がカユアロ
茶農園を視察して、全従業員を集めてスピーチした。公的スピーチはインドネシア語で行
うのが常識だ。そのスピーチの間中、従業員はただひっそりと静かにしていた。スピーチ
が終わると、カユアロ茶農園のスタッフのひとりがマイクの前に立ち、重役のスピーチの
内容をジャワ語で繰り返した。突然、従業員の間から拍手や笑い声など、生き生きとした
反応が出現したそうだ。

カユアロ茶農園を管理している農園マネージャーは西スマトラ出身、アシスタントマネー
ジャーは北タパヌリ出身者だが、ふたりともジャワ語がたいへん堪能だ。カユアロでジャ
ワ語ができなければ仕事にならないということかもしれない。

カユアロに種族間コンフリクトはない、とムスナルディさんは言う。カユアロのジャング
ルに先住民はほとんどいなかったから、ジャワ人がそこを開墾してジャワ社会を作っても、
誰と衝突することもなかった。むしろ、カユアロの外に暮らしていた先住民のムラユクリ
ンチ種族が農作物をカユアロ社会に売りに行くという経済活動の相互作用が発生して、た
がいにメリットを享受する関係が作られて行ったことが、現在の穏やかな地域社会が生ま
れる基盤になった。

トランスミグラシ政策と関係のないカユアロ茶農園開発が、あたかもトランスミグラシの
理想形態を生み出したように見えるのは、たいへん皮肉なことのように思えてしかたない。
[ 完 ]