「ヌサンタラのフランス人(17)」(2020年08月26日)

1672年4月30日、スラッからヴォントゥ―ル号が鉄棒1千本を運んできて、港湾長
カイツーに売った。その船で新フランス商館長ヴィリセルViricelもやってきた。新商館
長はギロン以外の幹部ふたりを業務に不熱心であるという理由で左遷し、ギロンを副商館
長に任命した。

6月末に別のフランス船がバンテンに入港し、荷を得て10月に出港した。そのころVO
Cは8〜9隻の船をバンテン沖に配備して海上封鎖を行っており、トンキンと台湾から来
たイギリス船3隻が拿捕されている。フランス船は一旦は無事にバンテンから遠くまで離
れたものの、船長が病死してしまったためにバンテン港に戻って来た。その行為はVOC
の鹵獲船を増やすだけのことでしかなかった。

ヴォントゥ―ル号も同じころにバンテンにやってきて、コショウを積み込み、またバタヴ
ィアの華人商人から日本産の銅を買ってバンテンを去った。ヴォントゥ―ル号はVOCの
海上封鎖を巧みにくぐり抜けている。


そんな事態をバンテン王宮が黙って見ているはずがない。VOCのバンテン封鎖は交戦国
イギリス・フランスへの単なる敵対行動ではないのである。それは独立王国バンテンに通
商目的にやってくる船に対する明らさまな妨害行為であり、VOCがバンテンの国力を殺
ぐことを副産物にしようとしているのは疑いないことだったのだから。イギリス・フラン
ス以外の船であろうと、VOCの武装船に捕まるとバンテンをやめてバタヴィアへ行くよ
うに強制された。

バンテン王国は11月から持ち船の武装強化を開始し、12月に入ると海岸線に2キロに
渡って設けられている石造りの防壁の改修工事にとりかかった。サンゴ岩が焼かれて石灰
が作られ、それで石をつなぎ合わせるのである。大砲の台座にするため、華人木工屋に木
製荷車が何百台も発注された。イギリス人はスルタンに大砲27門と火薬を寄贈した。戦
争に従事させるため、身体強健な者の徴兵検査が行われ、同時に戦費を支えるために社会
に新税が課された。バンテン在住のVOC代表者は閉門蟄居が命じられ、百人の兵士によ
る厳重な監視下に置かれた。

そのころ、バタヴィアでは抑留されていたフランス人兵士らが少人数のグループで少しず
つ解放され始めた。まとめて解放すれば反乱を起こすおそれがあるためだ。だがVOCの
本音は多分、無料で食べ物を捕虜に供与する費用を惜しんでのことだったのではあるまい
か。

かれらは続々とバンテンにやってきたし、またVOCに雇用されていたフランス人もVO
Cを脱走してバンテンに来た。オランダ側に就いて同胞に銃口を向けるようなことをした
くなかったのだろう。

そんなこんなで、1674年2月のフランス商館居住者は50人に達し、更にその年10
月には118人を数えた。その間、事実上ギロンがフランス商館責任者として采配を振る
っている。


だが1674年7月末にVOCがバンテンの海上封鎖を解除したことで、大戦争勃発の危
機は回避された。その裏側にはイギリスで議会の突き上げに押された国王チャールズ二世
がイギリス=オランダ間の和平条約に調印していた事実があったからだ。だがイギリスが
手を引いたからと言って、VOCのフランス人に対する態度も軟化したというわけではな
い。フランス人に対して、更にはバンテン王国に対して、VOCの圧力は強まりこそすれ、
扱いにたいした変化は見られなかった。バンテンに大量に溜まったフランス人はイギリス
船でバンテンから運び出されて行った。

1678年9月17日にオランダのネイメーヘンで和平条約が結ばれたが、バタヴィアの
VOCがフランス人への圧力を緩めたのは1679年6月であり、和平条約の公表は8月
1日にやっとなされた。実際に和平条約がヨーロッパで結ばれても、ほとんど一年間VO
Cはそれを無視したということだ。バンテンのフランス商館はようやく普通の商活動がで
きるようになった。[ 続く ]