「ペスト(1)」(2020年08月26日)

1910年から1918年まで、ジャワ島をペストが襲った。輸入された米がその発生源
だとされている。その当時の疫病への対応は、プラムディア・アナンタ・トゥルの作品
Anak Semua Bangsa(すべての民族の子)の中に描かれている。

植民地政庁は疫病がはびこった部落をロックダウンして、外の人間が中に入ることも、中
の人間が外に出ることも許さず、中の人間が全滅したころを見計らって油を噴霧し、火を
放って一部落を焼き滅ぼすのである。

そのエピソードの舞台にされたのはスラバヤの南に隣接するシドアルジョ県トゥラガン
Tulangan地区だ。そこから離れた地区で安全に暮らしていたニャイ・オントソロの姪スラ
ティが、自分の運命に抗議して自殺を企て、禁を犯して疫病のはびこった部落に潜入する
物語になっている。

プラムの小説に登場する疫病はペストでなく天然痘だった。天然痘にかかったスラティは
死なず、自分を妾にしようとしたオランダ人農園管理人にベッドで菌を移して、憎むべき
暴君管理人を死に至らしめた。スラティは生き延びたが、美しかった顔は二目と見られな
い痘痕顔になり、従姉妹のアンネリースの幸福そうな結婚式を自分にも、と夢見ていた未
来は永遠に手の届かないものになってしまった。

アンネリースの幸福も長続きせず、愛する夫との結婚を認めようとしないオランダの親族
がふたりの仲を引き裂いて、かの女をオランダに移した。その自分の運命に抗議してアン
ネリースも自分の生命を捨てた。人間の運命というものが横暴貪欲な個人の恣意によって
どのようにも形を変えた時代の悲劇が植民地に生まれたふたりの娘を襲ったのである。


ジャワ島のペスト禍は多くのプリブミの生命を奪った。スマランのサレカッイスラムが発
行している機関紙シナールヒンディアSinar Hindia1918年5月18日号に掲載された
「正義の毒矢」と題するダルソノの記事は、スマランの地区別病死者数を次のように報告
している。なお数字は住民1千人当たりの死者数であり、死者数合計ではない。
地区名: 1917年第一四半期 ⇒ 1917年第二四半期
Semarang Wetan: 59 ⇒ 72
Genoek: 24 ⇒ 64
Pedoeroengan: 21 ⇒ 90
Mranggen: 26 ⇒ 151
Karangawen: 24 ⇒ 115
Kebonbajoer: 20 ⇒ 98

植民地政庁はそれまで行っていたジャワ人医師養成プログラムをもっと大規模なものにす
る必要に迫られて、1913年にバタヴィアのヴェルテフレーデンにSTOVIAを開校
した。西洋医学を学んだ大量のジャワ人医師を原住民社会に与えてやらなければ、疫病禍
によって植民地の人口は激減してしまうかもしれない。草の根庶民である原住民がオラン
ダ人医師の元にやってくることはまず考えられなかったのだから。

植民地政庁はまた、プリブミ住民への啓蒙教育にも努めた。種々の啓蒙活動の中に、後の
バライプスタカBalai Pustakaになる「植民地教育と民衆図書のための委員会」Commissie 
voor de Inlandsche School en Volkslectuurが1915年に出した14ページの、パン
フレットのような啓蒙書がある。オランダ語・ムラユ語・ジャワ語・スンダ語・マドゥラ
語・バタッ語・アチェ語・ニアス語・マンダイリン語版が出され、オランダ語版タイトル
De pestziekte op java en de middelen ter voor koming hiervanyangはムラユ語版で
Penjakit Pest Ditanah Djawa dan Daja Oepaja akan Menolak Diaというタイトルになっ
ていた。疫病に関する書籍シリーズとして、このペストと天然痘およびコレラが相次いで
出されている。[ 続く ]