「ヌサンタラのフランス人(18)」(2020年08月27日)

バタヴィアのフレイバーガーで、バンテンに逃れて来ていたエチエンヌ・ジュアンニ
Etienne Jouanniがジャワでの取引を再開させる意向をギロンに語り、ギロンは始末に困
っていたアヘンをジュアンニに預けることにした。ジュアンニはそれをジュパラで売り払
う計画を立てた。

ところがその道中でジュアンニの隊商は、マカッサルからマタラム王国を荒らしに来てい
たブギス人戦闘部隊の攻撃を受けて荷物はすべて略奪されたのである。その損害はフラン
ス商館の損失を肥大させたことから、フランスの本社におけるギロンの評価は悪化した。


1979年12月末、フランス船到来を前にしてギロンは大量のコショウ、種々の布類、
龍涎香などを仕入れた。最初にやって来たフランス船はトンキン号で、バンテン経由トン
キンを目的地にしていた。他にもヴォントゥ―ル号を含めて二隻がばらばらとバンテン港
に到着した。それらの船は陶器・白檀・ミョウバン・銅そして錫と鉛などを積んで来た。
ヴォントゥ―ル号の目的地はシアムSiamであり、シアムにフランス商館を開設する使命を
帯びていた。運よくその目的は達せられ、シアムの使節がフランスを訪れることになった。

フランス国王夫妻と宮廷そして政府の要人たちのための大量の贈り物を積んだヴォントゥ
―ル号がバンテンに戻って来た。贈り物の中には雌雄一対の若い象まで入っていたのだ。
だがヴォントゥ―ル号はそんな大量の人と荷物を積んでインド洋を渡るには小さすぎたの
である。使節一行はフランスに戻るもっと大型の船がバンテン港を出るまで、待たされた。

ギロンはその高貴な一行を処遇するために、またまた心労と疲労を重ねることになった。
一行は9月に大型船でバンテンを去った。


ギロンは病気にかかって業務を休まざるを得なくなった。ギロンの心は故郷フランスへの
帰心矢のごとしだったものの、また思わぬ事態の変化によって、かれの帰国は混乱の渦に
巻き込まれてしまう。

王位を息子に譲ったスルタン・アグン・ティルタヤサと新王スルタン・ハジの間で抗争が
始まったのだ。前王は譲位相手を間違えたと思ったのだろう、新王を退位させて別の息子
を新スルタンにしようとしたが、既に新王として即位したスルタン・ハジは王国の主とし
て父親が強いる退位に応じようとしなかった。

抗争は武力闘争に発展して、バンテン市内も戦火にさらされてしまう。バンテン王国を牛
耳ろうとしていたVOCがこのチャンスを放っておくはずもない。VOCがスルタン・ハ
ジをそそのかしたという話もあるくらいで、父親の側に着いた兄弟一族対スルタン・ハジ
+VOC連合軍という戦争への道を、事態は歩んで行ったのである。

15万人の住民を擁していたバンテンの町から、住民の姿が消えた。家屋は燃やされ、兵
隊か、さもなければ命知らずの男たちによって残されていた財貨が略奪された。バンテン
にいた外国人商人の中には、バタヴィアに難を避けた者も少なくない。だがフランス商館
を預かるギロンにそんなことはできなかった。バタヴィアにフランス商館を置かせるよう
なVOCであれば、バタヴィアの発展など夢物語だ。

町中にある商館は略奪者にとって絶好のターゲットになる。ギロンは海上の方が安全だろ
うと考えて、バンテン港に停泊中の船に頼んで商館の財産を預けた。ところが停泊中の外
国船にまで略奪の手が伸びて行ったのである。こうしてバンテンのフランス商館はあらゆ
るものを失い、バンテンにおける短い歴史を閉じた。

戦火の下を生き永らえたギロン自身も、1682年5月27日にバンテンを去ってバタヴ
ィアに移った。VOCの操り人形になったスルタン・ハジが出した全外国人の追放命令が
ギロンのバンテンにおける14年間の歴史さえ奪ってしまったのだ。スラッからバタヴィ
アにフランス人を迎えに来たヴォントゥ―ル号に乗って、ギロンは東インドを去った。
[ 続く ]