「ヌサンタラのフランス人(19)」(2020年08月28日) フランスに戻ったギロンは、それでも東インド会社から与えられるであろう表彰と報酬に 一縷の望みを託していた。ところがパリの本社でギロンが受けた待遇はかれのあらゆる希 望を打ち砕いてしまったのである。 会社役員会はギロンを尋問した。そして全財産を商館に保管してそれを守るための努力を 払おうとせず、財産すべてを外国船に預け、おまけにポルトガル船に預けたために商館の 全財産が失われたのだとギロンの処置を非難した。ギロンは会社に対して全損害の弁償を 命じられ、14年間のバンテンにおける汗と涙と血の代償は一瞬にして消え失せてしまっ た。 まだヨーロッパの知識になっていない土地をこの脚で訪れ、その地に暮らすひとびとの営 みをこの目で見たいという知性の欲求に駆られて、軍船を降りたフランス海軍少尉が密か な放浪の旅に出た。言うまでもなく、それは脱走行為に該当する。 1740年トゥールーズToulouseに生まれたピエール・マリー・フランソワ・ドゥ・パジ ェPierre-Marie Francois de Pagesは17歳でフランス王国海軍に入隊し、剣と弾丸の中 を何度もかいくぐった経験を持ち、26歳で少尉に昇進した。 パジェの乗った軍船ラデデニューズがサントドミンゴに停泊中、かれは船を降りて無断で 旅に出た。1767年6月のことだ。最初かれはアメリカ大陸のルイジアナに向かった。 次いでヌーヴェルオレオンNouvelle-Orleansを経て西に向かい、テキサスのレッドリバー をも渡った。その間かれはアメリカインディアン・クレオール・スペイン人らと生活を共 にし、ひとびとの暮らしを観察した。メキシコに入ったのは1768年2月28日だった。 かれはヌーヴェルオレオン以来3千2百キロを踏破したことになる。 3月24日にアカプルコに達すると、太平洋を横断する船を探した。船は4月2日に出港 した。百人を超える乗客が乗った船は6月10日にグアム島に着いた。グアム島は当時幹 線航路から外れた島であり、その船は8年ぶりにこの島を訪れた珍しい船だったようだ。 船は更にフィリピンを目指し、パジェはサマール島で降りてから6月15日にマニラに入 った。 7カ月間のマニラ滞在中、かれは原住民と共に暮らすことを望み、その生活を観察した。 かれはこう書いている。 ここでは男も女も半裸で暮らしている。かれらの茶色い肌が天然の衣服のようなものなの だろう。家族はたいへん仲が良く、寝る時は全員が同じ部屋で眠る。かれらの顔つきは明 るく、節度があり、他人に手を貸すことを厭わない。ただ、好奇心があまりにも強すぎる。 暮らしぶりは質素で勤勉であり、礼儀正しく、話す口調も奥床しい。ムスリム海賊の跋扈 だけが最大の瑕疵である。 パジェはほんの数日で原住民の言葉や習慣を理解し、そこでの暮らしにあまり困らなかっ たようだ。 当時のマニラは住民人口80万人の大国際都市で、東インド人・華人・ムラユ人・シアム 人・インド人・アルメニア人・ユーラシア混血者・日本人などが入り混じって暮らしてい た。街並みは美しく整然としており、平屋の豪邸の並びにはスペイン人が住み、別の場所 には賑やかな原住民居住地区がある。華人は広東や金門出身者が2万人ほどいて、カトリ ック教徒として安全に暮らせるマニラ一帯に移住して来た者たちだ。パジェはかれらをト ップクラスの商売人と見た。もちろんそこには密輸や闇取引も含まれている。華人は愉快 そうなフレンドリーな表情で他人を丁重に遇し、どんなことでもすぐに自分の身体を動か して即座にそれを行う。熱帯に住む人間の怠惰さはかれらにない。 マニラには毎年、中国のマカオ・広東・金門間を5〜6隻の船が往復し、もう一隻はシア ム〜インド、更に一隻はバタヴィアに往来している。1769年3月7日、パジェはバタ ヴィアに向かう船でマニラを去った。[ 続く ]