「ヌサンタラのフランス人(20)」(2020年08月29日)

マニラからバタヴィアに向かった船はどこにも寄港せずに4月15日、バタビア港に到着
した。パジェがバタヴィアで受けた印象はマニラと大違いだった。マニラで接した原住民
の暮らしぶりは明るく陽気で、楽しそうに生きているというのに、バタヴィアの町は硬く
重苦しい空気に包まれていたのである。

マニラのスペイン人と違ってオランダ人は原住民と混じり合って生活することができない
のだ。オランダ人は虚偽に満ちた、人間性に欠ける極端な統治方法を執り、通商保全のた
めに硬軟あらゆる手を使い、地元民と頻繁に戦争を行い、バタヴィアの周辺社会とも緊張
状態を続けている。通商に使われるべきエネルギーが抗争で使い果たされたなら、オラン
ダVOCは早晩この地から消滅するしかないだろう。

パジェの観察は決してかれだけのものでなかった。非オランダ人でかれと類似の観察をし
た者は何人もいる。


パジェは城壁に囲まれたバタヴィア城市の内外を歩き回った。城市の外を囲む地区をかれ
は三つに区分した。ひとつはポルトガル系とインドのマラバルやベンガル系住民の地区で、
道路や家屋はオランダ様式の影響を受けている。もうひとつはたいへん広いエリアで、華
人街になっている。このエリアはたいへん活発で、また生活技術のレベルが高い。金持ち
の家は別にして一般庶民の家屋はたいへん質素であり、ほんのあり合わせで作ったような
ものだ。家屋が密集してスラムを形成しているため、道も狭い。住民が作った物があちこ
ちに置かれている。

三つ目の地区は居住者がまばらな、もっと広大なエリアで、そこに住んでいるのは東イン
ド島嶼部のプリブミであり、ジャワや他の島々の原住民やインド人商人たちだ。このエリ
アの家屋や庭園はオランダ人金持ちのものと違わないくらいきれいでよく手入れされてい
る。原住民の暮らしはたいへんシンプルで、食事は飯と果物を食べる。衣服も質素だ。

オランダ人の家屋は大きく快適で、表にベランダを持ち、庭園は自然が一杯で川が引かれ
て小島が浮かんでいる。これまでのやり方に反してパジェは、バタヴィアでだけは原住民
の暮らしに入ろうとせず、ヨーロッパ人の家で暮らした。


アジアの女はあまり家から外に出ない。華人はたいてい結婚相手の女性をほとんど知らな
いで妻にする。結婚が決まった娘がいる家は窓に花を生けた花瓶を置いている。

ジャワ人は身体が大柄で、心優しく、顔つきは柔和だ。フィリピンの原住民よりもジャワ
人のほうが高貴な様相をしている。ムラユ人は小柄で太っており、目つき顔つきはあまり
フレンドリーでない。

オランダVOCがこの東インド島嶼部をあらかた支配下に収めているというのに、オラン
ダ人は落ち着いて統治行政を行い、通商に精を出すことをせず、原住民との抗争や戦争に
明け暮れていることをパジェは不可解な思いで眺めた。かれはフィリピンで見たこととそ
れを比較する。

スペイン本国とフィリピンのスペイン人は同一宗教である原住民の民生を保護して、原住
民と一体になったコロニーを作ろうとしている。そのため、スペイン人と原住民の結婚を
庇護こそすれ、阻害したり困難さを与えようとはまったくしない。反対にバタヴィアでは
オランダ人が優良人種で統治支配者であり、社会の中で劣等人種との間に格式の差を設け
ている。その人種差別がマニラの顔とバタヴィアの顔の間に違いを生んでいる。

そのパジェの分析はバタヴィアに関する限り、その後の歴史が証明して見せているようだ。
1769年8月2日、パジェはバタヴィア港からイギリス船に乗ってインドを目指した。
かれの世界一周の旅は1771年12月5日にマルセイユに帰還して終わりを告げた。
[ 続く ]