「ペスト(3)」(2020年08月28日)

まだ罹患していない健康な者にワクチンの予防接種を行うことがもっと実際的な対策であ
るのは分かり切ったことだったにも関わらず、そしてそれは最終的に植民地政庁が実行に
移したのだが、1915年に出された啓蒙書にはそのことがまったく触れられていなかっ
た。

植民地政庁は何百万人もの植民地プリブミの健康保護のために高額の経費を支出すること
を最後まで避けようとしたにちがいあるまい。確実な予防手段は秘匿して、原住民が自力
で行えるモルモットを風見鶏にすることを勧めたのである。

植民地制度とその政策が植民地プリブミの激しい貧困を生み出した。その帰結のひとつが
ペスト禍だったのであり、ペストで死亡した人間のほとんどはプリブミだった。原住民の
経済向上と健康生活の指導がもっと早くから行われていれば、ペストの被害はもっと小さ
いものになっていただろう。植民地政庁が第一優先的に行ってしかるべきことがらだった
のはそれであり、起こったペスト禍に対応のエネルギーを注いでも、大災厄を起こさせる
環境が出来上がっている以上、被害を最小限に食い止めるには時すでに遅かったのだ、と
コンパス紙は結論付けている。


このペスト禍をジャワ島に出現させた要因は次のようにからみあいながらその悲劇を進展
させて行った。その様相は既にこのように解明されている。

1910年、ジャワ島は凶作に見舞われた。植民地政庁はその対策として米をビルマ・イ
ンド・中国から輸入した。その年8月から大量の米が船でスラバヤ港に入荷し、輸入量増
大は翌年まで続いた。

そのころビルマはペスト禍に見舞われていたが、その情報は政庁の米輸入方針に何の影響
も与えなかった。スラバヤ港からシドアルジョに輸入米が運び込まれた。米の運搬の流れ
の中で、ネズミの死骸が多かったりノミの量が目立ったことを気にかけた者はいなかった。

末端現場でそれに気付いた者があったとしても、それはその人間の個人環境における茶飲
み話にしかならず、行政方針に関りを持つ人間の耳に達することはなかったようだ。

計画では、シドアルジョまで運ばれた米は鉄道でマランに送られ、マランからウリギWli-
ngiに供給されることになっていたが、その年12月に起こった洪水でマラン→ウリギ街
道が切断されたため、米はマラン一帯の倉庫で長期間保管された。その米が既にペストに
汚染されており、ペスト菌を抱えたネズミノミとその運搬役である大量のネズミも米と共
にマランを訪れたことを知る者はひとりもいなかった。米蔵にネズミが出没するのは当た
り前のことだったからだ。

山地に囲まれたマランという盆地の雨季がもたらす高温多湿はネズミノミの繁殖力を25
%増大させたそうだ。そんなマランの蒸し暑い空気の下で、ネズミノミは爆発的に繁殖し
た。ネズミの死骸が激増したことに関心を向ける者はいなかった。マランのトゥレンTu-
ren村で突然発熱者が増加し、数日間で一挙に17人が死亡したことが異変の始まりにな
った。その流行病は最初、チフスかマラリアではないかと推測された。しかし観察結果に
よってその仮説は否定された。罹患者は首や腋の下などのリンパ腺が腫れあがると、48
時間以内に死体になったからだ。

スラバヤ保健局長であるオランダ人医師はそれを新流行病であると保健行政に報告した。
バタヴィアのヴェルテフレーデン大病院ラボラトリーはマラン地区で病死した女性の血液
サンプルを検査分析し、最終的に1911年4月5日、植民地政庁公共保健局長がマラン
地区をペストエピデミック地区に指定した。


ペスト菌を持つネズミノミに噛まれた人間がペストに感染する。その初期症状は風邪に似
ており、ニ〜四日間発熱し、痙攣を起こし、菌が血管に入れば出血、肺に入れば咳、リン
パ腺の場合は腋の下や首が腫れた。

マラン一帯で異変は急速に拡大し、1911年3月にはマランのほぼ全域がペスト禍に陥
った。更にクディリ・ブリタル・トゥルンガグン・マディウンへと病禍は西に向かって拡
大して行った。ペストの最初の上陸地であるスラバヤも、無事で済むはずはなかった。

1911年4月、植民地政庁はエピデミック宣言を発した。国外からの米輸入は即座に激
減した。1911年末に、ペスト死亡者は2千人を超えたと報告された。[ 続く ]