「ペスト(終)」(2020年08月31日)

1916年、スマランのタンジュンマス港からスマラン市内にペストが侵入してきた。ス
ラバヤの貨物運搬船がタンジュンマスに入った時、船に巣食っていたペスト持ちネズミが
下船して町に入ったのだ。ほどなく、スマランの貧困スラム地区で病禍が爆発した。その
年10月から1917年末まで、スマランの大部分の地区に汚染が広がり、たくさんの死
者が出た。


植民地政庁公共保健局はヨーロッパから医師を招き、また原住民社会で医療に従事してい
るマントリmantriを使って、ワクチン接種を開始した。7カ月間にドイツ製ワクチン54,
017人分、イギリス製ワクチン11,703人分が投与された。都市部では医師が、村
落部ではマントリが部落部落を訪れてそれを行った。

政庁は対策のための規則を設けた。それによれば、家族の中に罹患者が出た場合、その一
家全員が隔離宿舎に移されて15日間監視下に置かれ、発症のないことが確認された上で
帰宅を許される。ところが現実に行われたのは、だれかひとりでも発症者が出ればその部
落の全員が隔離され、30日間の監視下に置かれた上でやっと帰ることが許された。そん
なことをすれば、近隣の部落から略奪者が無人の部落にやってきて家財道具を盗むに決ま
っている。もっとひどい場合には、その部落がペストネズミの巣窟と見なされ、近隣諸部
落に災厄をもたらす元凶と弾劾されて部落ごと放火されるかもしれない。問題は社会保健
から社会治安に移行してしまうのである。たくさんの部落で隔離拒否が行われた。直接的
な因果関係を求めるのは無理にしても、エピデミックが沈静方向に傾かない状況をそれが
サポートしたことは否めない。

マランでは、発症者を出した家はそこにネズミの巣があることが証明されれば、その家屋
を焼却するよう命じられたし、竹作りの家は取り壊して政府の推奨する木と煉瓦の家屋を
建てるよう強制された。しかし、そのための資金援助はなにひとつ与えられなかった。


ジャワの民衆はエピデミックの際のモダン行政対応の経験が皆無であり、おまけにペスト
というものの内容に関する科学的な知識を持っていなかった。そのために上述のパンフレ
ットのような啓蒙書が発行されたのだが、自分で情報を収集して自分の生活に反映させて
いく姿勢は当時のプリブミ民衆に望むべくもなかった。いや、それは時空を超越して現在
までも連綿と人間の本性の中に巣食っているものかもしれない。

行政が社会統治へのメリットを当て込んで選択し決定した大規模社会制限なるものに従お
うとしない人間が目立つ民族もあれば、一応従ってはいるものの、鬱々として愚痴ばかり
こぼしている人間が目立つ民族があることもわれわれは知っている。

行政はこのペスト禍を沈静させるために、住居の改善、人の集まる場所の閉鎖、罹患者と
の接触禁止などの諸項目を口やかましく庶民に通達したが、習慣的な日常生活を捨て去っ
てそれに従うような社会ではなかった。パサルはこれまでと同様に市日に開かれ、大勢の
人間が集まって賑わった。社会的通過儀礼などの祝い事も慣習として継続され、客が大勢
集まって人間同士の接触が起こり、あるいは罹患者の病気見舞いさえ他の病気と同じよう
に行われた。

行政の方は、マランにペスト撲滅局が設けられて地域ペスト対策本部となり、罹患者の移
送、隔離、住居改善などあらゆる対応活動を管掌した。ペスト罹患者が出れば、患者は隔
離施設に移され、その家屋には赤旗が立てられ、竹などの材料で家屋の周囲がふさがれて
人間の出入りが禁止され、屋根は取り外されて家屋内を日光に当てるといった処置もなさ
れた。

隔離施設は、罹患者隔離用、罹患者と家族の観察用、家族の隔離用の三つの区画に分けら
れていた。1911年4月には、赤旗の立った家屋の消毒が硫黄を使って行われ、衣服も
消毒され、屋内の家具や諸器具は日光消毒が一カ月間なされたが、ベッドは焼却された。
肺ペスト患者が出た家は家屋全体が焼却された。


マランのペスト撲滅局が6年間行った獅子奮迅の活躍によって、1916年にやっとマラ
ン地区はペストエピデミック解除にこぎつけることができた。だがジャワ島全域がそうな
るためには、更に2年の歳月を必要としたのである。[ 完 ]