「ヌサンタラのフランス人(21)」(2020年08月30日)

パジェより一足先にバタヴィアを訪れたフランス人がいる。それはルイ・アントワン・ド
ゥ・ブーゲンヴィルLouis-Antoine de Bougainville。かれは元々パリの弁護士事務所で
弁護士をしていた人間だ。その後、フランス王国軍に入り、ルイ十五世の親衛隊船長を務
め、北米でのイギリスとの戦争に従軍した。

かれはマゼランの世界周航を真似たいという念願を抱き、純然たる学術を目的とした世界
周航の実現を国王に説いて賛同を得、国家行事として1766年12月に二隻の船団によ
る世界周航の途に着いた。

大西洋を縦断してからマゼラン海峡を通過し、42日目にタヒチ島に到着。そこで十日過
ごしたあと、マルクへは2カ月の航海だった。その途中、頂上が厚い雲に覆われた5千メ
ートル級の山を擁する山脈が浮かんでいる大きな島の脇を通過した。海岸線は荒れ地で何
も栽培されておらず、果実を育む木も見当たらない。島があると乗組員たちはその姿を眺
めるために船端に集まって来るのだが、なにしろ45人が壊血病で倒れ、柑橘類とワイン
で闘病中だったから、船は静かに進んでいるばかり。その島がパプア島だった。

すると突然、両舷側にアウトリガーを装備した手漕ぎの小舟が出現した。真っ黒い男がひ
とりでそれを漕ぎ、男の鼻には黄金のリングがきらめいている。そばに乗っている数人の
男たちは武器として槍を持っている。かれらは少量の水と、かれらの食糧と思われる粉状
のものを持って来た。他にも果実や芋類がある。だが残念ながら、それでは少なすぎるの
だ。

乗組員たちはハンカチ一枚と小さい鏡を一個かれらに代償として与えた。多分かれらにと
っては少しも珍しい物でなかったにちがいない。かれらはゲラゲラと笑い転げていた。


8月31日、セラム島が見えて来たので、二隻はオランダ国旗を掲げた。ところが港に接
近してから、陸上の様子がはっきりとわかった。島の中は戦争状態だったのである。原住
民がオランダ商館を焼き討ちしてオランダ人を島から追い出した直後に二隻がやって来た
ということだ。二隻は仕方なくブル島カイエリ湾に船首を向けた。そこにはオランダ商館
がある。

カイエリ湾で錨を下ろすと、VOCの軍服を着た丸腰の兵士がふたり、小舟でやってきて
かれらの規則を言い立て、来航の目的を尋ねた。VOCの船舶でない船はアンボン島の行
政長官の許可なくこの地域に来航してはならない。

建前の演技はそれで終わり、VOC兵士はここの商館長宛に航海経路・現在の状況・航海
目的などについて手紙を書けと言う。ブーゲンヴィルの書いた説明書を兵士は持ち帰った。
結局ブーゲンヴィルと幹部数名に上陸許可が下り、商館長の事務所兼邸宅に招かれた。そ
の邸宅はいささか中華風建築様式で建てられ、小川が走る美しい庭園に囲まれており、そ
こから海岸へ小道が伸びている。邸内では中華服を着た商館長の妻と娘たちが中を花など
で飾るのに大忙しの態だった。家具類も中華風のものだ。

商館長はバタヴィア生まれで、かれはアンボンの欧亜混血女性を妻にした。晩餐が供され、
たいへん強いビールが出された。一行はそこに滞在中、鹿の肉を堪能した。しかしパンは
なく、飯で代用せざるを得なかった。この地で作られるパンはサゴの粉を使ったものしか
できない。


9月7日、一行はカイエリ湾を出帆してバタヴィアに向かった。スラウェシ島沖を航行し、
バタヴィア湾に散らばる1千の島々に達してから港に向かい、バタヴィア城市内の教会の
尖塔が視野に入ったのは9月28日のこと。

東風の季節から西風の季節に移り替わる時期が疫病の隆盛期であることを慮って、ブーゲ
ンヴィルはしばらく様子を見るためにエダム島の近くで停泊することにした。[ 続く ]