「アチェスルタンの食糧政策(1)」(2020年09月02日) アチェ王国の興隆は、ポルトガル人のマラッカ奪取によってそれまでのマラッカ海峡を通 る通商航路がインド洋側に移動したことと密接に関わっている。 元々アチェ地方を支配していたラムリ王国はアチェの東方およそ35キロにその王都を置 いていた。そこは西や北からマラッカ海峡を目指してやってきた船が寄港する港の一つだ ったのである。ところがムスリム商船がスマトラ島のインド洋側を通るようになった時、 ラムリの繁栄はアチェに移って行った。ラムリ王国にとって不運だったのは、1450年 の津波で国力が大幅に低下したことだ。それがラムリ王国の辺境の地アチェに勃興の機会 をもたらした可能性は小さくない。 ラムリとアチェの関係は拙作「津波とアチェの歴史1〜3回」(2019年07月08〜 10日)をご参照ください。 アチェ王国の黄金期を築いた人物がスルタン・イスカンダル・ムダSultan Iskandar Muda である。イスカンダルというアラブ語の名前はマケドニアのアレキサンダー大王に由来し ており、英語のアレキサンダーはギリシャ語のアレキサンドロスが転訛したものだそうだ。 イスカンダルにアラブ語の冠詞アルを付けるとアリスカンダルとなってアレキサンドロス の発音に似てくる。エジプト最大の港アレキサンドリアはアレキサンダー大王の名前が付 けられた地名のひとつであり、アラブ語ではアリスカンダリヤal-?Iskandariyya、エジプ トアラブ語はエスケンデレイヤEskendereyyaという発音になっている。インドネシア語で は冠詞のアルを付けずにイスカンダリヤIskandariyahと称すのが普通だ。 イスカンダル・ムダの在位は1607年から1636年までのほぼ三十年間だった。この アチェ王国の黄金期を築いた英傑がモットーにしていたことは二つある。ひとつは、自分 が治めているこの王国が近隣諸国の中でピカ一であること、もうひとつは安定した食糧供 給だった。 スマトラ島北西端にあるアチェが南と東に向かって覇権を拡大して行ったころ、食糧供給 体制は既に完璧なものに作り上げられていた。メダン国立大学歴史と社会科学研究センタ ー長のイッワン・アスハリ氏は、スルタン・イスカンダル・ムダがたいへん強固な食糧供 給システムを持っていたことを物語る。 「外征を行う前に強固な食糧確保態勢を用意しておくことはとても重要な戦略です。イス カンダル・ムダはその在位期間中にたいへん賢明な食糧政策を実行しました。アチェの出 現はサムドラパサイSamudera Pasai王国の力が傾いて行く中で起こったことですが、その 時期の状況はまだあまり明らかになっていません。トメ・ピレスの東方諸国記Suma Orien- talには、パサイに並び立つ新興パワーが出現していることが報告されています。その新 興パワーがアチェなのであり、アチェはスパイス通商から国力強化のエネルギーを得たの です。」 アチェ自身にも支配権に強弱の波が起こった。この王国は時に強力な存在になり、次いで その力のかげる時期も来た。それが甚だしい時には暗黒時代さえ訪れ、そうしてイスカン ダル・ムダの治政がやってきた。イスカンダル・ムダが国家統治を開始したとき、かれの 目にはさまざまな問題が見えていた。それらを改善しなければ、この王国は滅びるだろう。 [ 続く ]