「ヌサンタラのフランス人(27)」(2020年09月05日) フランス人と言えば、バタヴィアのレイスウェイク通りRijswijkstraatを忘れてはなるま い。東インドの諸所を占領支配していた会社(VOC)が破産してオランダ王国がその債 権債務を引き継いだとき、東インドはオランダの植民地になった。 その辺りの状況をもっと正確に述べるなら、16世紀後半に近隣諸国の支配下から脱した 低地七州が作ったネーデルラント連邦共和国Republiek der Zeven Verenigde Nederlanden が1795年にフランス革命の影響を受けてバタヴィア共和国Bataafse Republiekに変身 した中で起こったことだ。 オランダ王国の誕生はフランス帝国皇帝ナポレオン一世が弟のルイ・ボナパルトをバタヴ ィア共和国の王位に就けた1806年のホラント王国het koninkrijk Holland成立ととら えることもできるが、現在のオランダ王国Koninkrijk der Nederlandenの王朝を継承する オラニエナッソーOranje-Nassau公家による王国設立は1813年になる。 ホラント王国は1810年にフランス帝国の領土とされて、オランダの地にあった独立国 は消滅する。すなわち東インドのジャワ島は最初ネーデルラント連邦共和国の中に作られ た会社であるVOCの支配下にあった。ところがVOCは会社活動の衰退によって民間株 式会社として破綻をきたしてしまったために、1796年にバタヴィア共和国が国有化し た。ジャワ島はこのときに国有会社を通してオランダという国家の所有物になったと言え る。 そして1799年12月31日に会社は解散してしまうが、VOCに帰属していた資産は バタヴィア共和国政府の直接管理課に移される。それはルイ・ボナパルトのホラント王国 に引き継がれ、更に1810年にオランダの地の直接統治者になったフランス帝国の掌中 に最終的に委ねられたというのがその流れになっている。 1810年にジャワ島がフランスの植民地になったというのは形式上の話であり、バタヴ ィア共和国誕生以来、ジャワ島は既にフランスの間接支配下に入っていたというのが実質 的な話だろう。 フランス帝国がジャワ島を敵国イギリスに渡すまいとしてナポレオンにとっての懐刀であ るダンデルスを総督の座に送り込んだ話は拙作「ヴェルテフレーデン」に見られる通りだ。 イギリス軍は1811年にジャワ島でフランス=オランダ軍を打破して降伏させ、ジャワ 島をイギリス領にした。 1815年、イギリスは対ナポレオン戦争の間に奪ったオランダ植民地を新設されたオラ ンダ王国に返還したため、ジャワ島でのイギリス統治時代は幕を閉じることになる。20 年間にわたってオランダの統治から離れていたジャワは、あらためてオランダ植民地時代 に入って行ったのである。 レイスウェイク通りはハルモニー社交場が完成した後、モーレンフリート南端からコニン グスプレインやタナアバン地区に向かう小道が整備されて作られたようだ。そのころ、ハ ルモニー社交場を西端にするレイスウェイク地区は総督宮殿や高級ホテルが立ち並ぶ新バ タヴィアの第一級地区であり、ハルモニー社交場の南側に隣接するいくつかの商店と住宅 地区は当然のようにバタヴィアの第一等地区とされた。その西側を通るレイスウェイク通 りの向こう側にできた商店街もバタヴィア最高級ショッピング街のステータスを与えられ た。 そこでは、パリ最新流行ファッションを取り入れた軍人や市民向けの服の仕立てから、フ ランスの薫り高い靴やケーキ、更にはピアノまで買うことができた。それらの事業主の多 くはフランス人であり、フランス人はまたレイスウェイク地区近辺のホテルオーナーにも なった。[ 続く ]