「ヌサンタラのフランス人(28)」(2020年09月06日)

事業が大当たりだったかどうかは別にして、バタヴィアのヨーロッパ人社会で名前の知ら
れたフランス系一族には、ルロー家Leroux、パスカル家Pascal、スフェール家Seuffert、
クレソニエ家Cressonnier、コメール家Comert、バスチエール家Bastiere、ジラドゥ家
Giradeau、ランソン家Rinchonなどがある。

レイスウェイク通り商店街北端の店が当時バタヴィア最高の仕立屋だったオジ・フレール 
Oger Freresだ。フランス人の兄弟がふたりで1823年に開店したこの店は正装紳士服
を仕立てるバタヴィア最高の店で、パリ最新流行を敏感に取り入れて最新ファッションを
顧客に提供する技術は並ぶ者がいないと絶賛された。オジ・フレールは百年以上にわたっ
て同じ場所でそのビジネスを継続した。

ルロー家は1852年にパリスタイルのパンとケーキの店を開いた。ジョン・スフェール
Jean Nicolas Justin Seuffertは1857年に靴屋を開き、ジョン・コメールJean-
Baptiste Marie Comertにその事業を売った。バスチエールは仕立屋の一家だった。ニコ
ラス・パスカルNicholas Pascalはパリファッションの靴店だった。バタヴィアで唯一の
眼鏡店デュレOptiek J.Duretは1866年から1888年までレイスウェイク通りの一角
を飾った。

ルイ・クレソニエLouis Cressonnierはエチエン・ショロンEtienne Chaulanがオーナーだ
ったホテルプロヴォンスHotel Provenceを1860年に買い取ってホテルデザンドHotel 
Des Indesに変えた。バタヴィアでトップクラスのホテルになったデザンドは、世界各国
から東インドを訪れる貴賓たちの宿舎になった。


バタヴィアで一旗あげようとやって来たフランス人の中には、舞台役者や演劇関係者たち
もいた。このひとびとにとっては、バタヴィアのヴェルテフレーデン地区北端でパサルバ
ルの南側のブロックに作られたヴェルテフレーデンシアターーSchouwburg Weltevredenの
存在がきわめて大きい役割を果たした。現在ジャカルタ芸術館 Gedung Kesenian Jakarta
になっているヴェルテフレーデンシアターは恒久建造物になってから1821年に使用が
開始されている。

このシアターがフランス人演劇関係者らのホームグラウンドになるのは1830年以降だ。
かれらの中に、フランス語教室やダンス教室を開設する者が何人も出たし、女優の中にこ
の第一等ショッピング地区にブティックを開く者もあった。

「バタヴィアで一旗」組の中に、フランスの演劇人デプラースZ Berger-Deplaceがいた。
かれはヴェルテフレーデンシアターの演劇界情報を中心にした新聞の発行を思いつき、フ
ランス語新聞ラロルニェットLa Lorgnetteを1875年10月1日から1876年2月2
5日まで毎週月曜と金曜に43回発行した。そのスタートは、折りしもフランスでヒット
したオペラやミュージカルコメディなどをバタヴィアで上演するためにパリから劇団がや
って来た時期に当たっている。

デプラースは最初、その劇団にバタヴィアでのマネージメントをオファーしたが、準備万
端整えて来たのでバタヴィアで新たな人間を雇う必要はないと劇団側はそれに答えた。か
れは仕方なく引き下がったものの、それに代わって新聞発行のアイデアが脳裏に浮かんで
きたということらしい。

新聞には劇評や演題などの案内、あるいは文化関連記事、そして広告が紙面の広い部分を
占めた。1部50センの値段で販売され、バタヴィアのフランス人やベルギー人、そして
フランス語を解する文化愛好ヨーロッパ人たちがそれを買った。[ 続く ]